労働からの解放、読書、裸体(腰湯)

今日は生憎、曇りで、太陽は雲に隠れている。
陽を浴びて、本を読み、うつらうつらするという、冬の午前中の楽しみ、この厳し過ぎる今年の冬の唯一の楽しみができない。つらい。

こういう時は腰湯だ。風呂場になぜかトルストイアンナ・カレーニナ』(新潮文庫)の中巻をもっていって、読書しながら腰湯。


う〜気持いい〜〜〜〜……しかし、公共空間としての海辺ということで思い出すのは、この読書行為という奴である。自分の家の近所にはヨーロッパ人が何人かいて、夏になると彼(女)らが浜辺で読書している光景を見るのだが、独特ですね。何か日本人を含むアジア人の読書行為とは発するものが違う。本を読んでいると同時に何かをしっかりと主張している行為となっている。


私はいろんな場所で本を読むことが好きだけど、どうも浜辺での読書がだめだ。あそこは本が読みにくい場所ではないか。だいいち、黒目の私より、太陽の光に弱そうな目をしている確率が多い白人の彼(女)らの方が、浜辺での読書は実はつらいのではないか。それなのに読んでいる。それもかなり長時間。日本人で浜辺で本を読んでいる人もいるが、読書時間は欧米人のが倍以上長い気がする。時間の長さは、主張と関連している。時間の長さが主張をよりアピールできると思っているのではないかと邪推したいくらいだ。


この主張は、「私は労働をしていないのよ」だ。


労働からの解放、読書、裸体の組み合わせが行なわれる空間が浜辺だ。


ヨーロッパにある海辺を公共空間として考えるなら、この海辺での読書の歴史を知らなければいけないのだろう。


エクスナレッジ社の雑誌『HOME特別編集号/PUBLIC SPACE』では「浜辺の魅惑」というタイトルでアラン・コルバン(『浜辺の誕生』などをまとめた歴史家)のインタビューが載っているとのこと。労働からの解放、読書、裸体の組み合わせについて語ってくれていたらうれしい。来週、東京に行った時に買ってこよう。
今、私も労働からの解放、読書、そして中途半端な裸体だ。