汽車住宅主義について

hi-ro2006-03-18


汽車住宅主義者なんである、私は。
汽車住宅主義とは何か?
まず汽車住宅について説明しよう。


第二次世界大戦直後、日本では厳しい住宅難に陥った。その解決のために、戦災によって機能を失った乗り物を住宅に変える転用が行なわれた。この転用によってできた住宅を汽車住宅という(この住宅の写真、転用の力学発生の詳細については拙著『汽車住宅物語』<INAX出版>を参照して下さい)。
汽車住宅主義は、第二次世界大戦直後から昭和30年代まで存在した(極少数現存するという)汽車住宅の概念を取り出して、現在の社会制度の変革のために使用する活動のことをいう。
汽車住宅主義の基本的な姿勢は、まず交通の停止、交通の停滞を全面的に肯定し、それを新たな関係性の形成の契機として考えることである。


汽車住宅主義者の参考文献は、いくつかあるが、ここでは2つほど紹介しておこう。
一つはコルタサルの短編「南部高速道路」(『コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男』所収 岩波文庫)。
もう一つは、バッファロー・スプリグフィールド『アゲイン』のライナーノート。


まずは「南部高速道路」。
物語は、こんなシーンから始まる。
「最初のうち、ドーフィヌの若い娘はどれくらい遅れたか時間を計ってやるわと息巻いていた、プジョー404の技師はもうどうでもいいという気持になっていた。時計はいつでも見られるが、右手首に縛りつけられた時間やラジオの時報の音がもはや自分たちとはなんの関わりのないものに思えた。あれはつまり、日曜日の午後に、南部高速道路を通ってパリにもどろうなどというばかげた考えを起こさなかった人たちの時間なのだ。フォンテンブローを出たとたんにのろのろ運転がはじまり、車が渋滞しはじめた」(木村榮一訳)
パリ郊外の大渋滞の場面から物語は始まる。
季節は夏。車はまったく動かなくなり、うだるような暑さの中で、大勢の人が車から降りていく。そして人々は飲み物や食べ物を交換しだす。車に乗っていた老婦人が具合が悪くなっていく。後ろの方の車に医者がいたという知らせがきたので、医者を探してくる。日にちが過ぎていく。食料がなくなったので、近くの農家に食べ物を探しにいった若者が土地の者に殺される。死体の処理に困ったので、車のトランクの中に密封する。
気温が下がっていく。季節は夏から秋へ、そして冬へと過ぎていく。人々は寒いので、今度は車の中に閉じこもる。老婦人は昏睡状態に陥る。女性たちが交替で看護にあたる。
近くの車の女性に恋をする者が現れる。渋滞は続き集落のようなものができあがり、そしてある日……この結末はここでは書かないでおこう。興味がある方は読んでみて下さい。最後のシーンが素晴らしい!


この小説を汽車住宅主義者は、交通の停滞を人々の新たな関係性へと組織した好例として読む。汽車住宅主義者は「南部高速道路」を、汽車住宅主義小説として認識する。


因に、この小説を書いたフリオ・コルタサルはアルゼンチン人、強度の幻想を日常に入れ込んでいくラテンアメリカ文学の作家の一人であり、映画監督ミケランジェロ・アントニオーニが彼の小説「悪魔の涎」(この文庫本で読める)に触発されて『欲望』を作り上げたことはよく知られている。


次にバッファロー・スプリグフィールド『アゲイン』のライナーノート。音楽評論家、天辰保文が書いている。
汽車住宅主義者が注目するのは、この箇所だ。
「グループが誕生したときのエピソードは、あまりにも有名だ。1966年の初め、場所はロサンゼルス。交通渋滞に巻き込まれた2台の車があった。1台は白いヴァン、それにはステイヴン・ステイルスとリッチー・フューレイのふたりがのっていた。(略)もう一台の車は、黒の霊柩車で、その車にはカナダのナンバープレートが付いていた。乗っていたのは、ニール・ヤングとブルース・パーマーのふたりだ」
霊柩車? ニール・ヤングって変な人ですね。
「その2台の車は、交通渋滞の中で、たまたま対向車線で擦れ違うことになったのである、この偶然の再会によって、4人は活動を開始、そこにザ・ディラーズで活動していたデューイ・マーティンを加えて、グループがスタートした。デビューアルバム「バッファロー・スプリグフィールド」が発売されたのは1967年2月のことである」


汽車住宅主義者は、交通の停滞を新たな関係性の形成の契機として考え、バッファロー・スプリグフィールドの音楽を汽車住宅主義音楽の一つとして認識している。また、風街の起源をロサンゼルスの道路としている。


汽車住宅主義者は、国鉄がス権ストをした日、女の子の部屋に泊った。
ふたりの時間が、巨大な都市交通に対峙してあったことを今でも忘れていない、なんて思っているバカ者でもある。