不登校と観察びとの力

昨晩は、不登校の子供たちが集まるフリースペースを運営している人と
私の知り合いの作家を会わせたのだった。


この作家は、少年時代、学校に行こうと思うと吐いたり下痢をしたりするようになり、結果、中学、高校をほとんど行ってない人だ。
人とほとんど接しないで虫だけを愛して何年間を過ごす。そこで虫好きのある大人と知り合う。この人を介して虫好きネットワークに入っていき、大人の社会に参入し作家となっていった。


私がこの作家の少年時代の話をおもしろいなと思っているのは、
ある虫好きの大人の存在、
そして作家としてそれなりに認められ、結婚もし子供もいるのに、今でも吐いたりしているところだ。


親でもない、学校の先生でもない、カウンセラーでもない、さらにはフリースクールの人でもない、そういう人とはぜんぜん違った大人と、不登校の子供が出会うのはなかなか難しいことだけど、その少年は蝶を介してある大人と出会う。


その大人が魅力的な人なのだ。ここでは詳しく書かないが、少しだけ紹介しておこう。
その人は、虫をずっと観察してきた人だった。この「観察びと」であったことに私は注目している。
「観察びと」が、どういう人であるのか、ダーウィンを話題にしながら少しだけ語っておこう。


このところアフォーダンスについての研究者、佐々木正人ダーウィンについて多く語っている。佐々木が語るダーウィンは進化論のダーウィンではなく、永遠の繰り返し活動を行なうミミズの生態をただただ観察し続けるダーウィンだ。
ミミズは、土を食べて、糞をする。その糞が地表になっていく。ミミズのこの活動を細大もらさず書き込んでいく。
とりわけ、ダーウィンが行なったミミズの穴ふさぎ行動の観察/記述に佐々木は注目する。
「d/SIGN」というデザイン雑誌(太田出版)があって、今号の特集は「心のデザイン」、その中で佐々木はこのようにダーウィンの観察行為を語っている。
ダーウィンは、行為を目的のもとに記述することは不可能だ、という地点に立った。あらゆる行為は、柔らかな土からできている地面を流れていく水のように、経路を多数潜ませている。つねに宙づり状態なんだということを見てとった。行為がもっているそうした『非決定性』は、『下等生物』であるとされるミミズにおいても同じだということです」


この「デザインは<原因>ではない」というインタビュー記事(聞き手:鈴木一誌)で、佐々木が「行為の宙づり状態」ということを、積極的に肯定していくところがポイントだ。
私の知り合いの作家の少年時代に出会った大人の話を彼から聞いていると、私は、どうもその大人は、虫を観察することによって「行為の宙づり状態」を認識してしまった人ではないかと思うようになったのだった。
そして、その認識は、その少年の、社会に出ようとすると吐いてしまうことや下痢という行為を、よくテレビドラマにある、ちょっと社会から外れている不思議な大人と出会って、原因や目的という文脈から外されて解放されましたという結果を生み出すようなことではなく、まさに宙づり状態にしてしまったのではないだろうか。
それを示すように、吐くことや下痢は今でも起こっているのだった。しかし彼は立派に大人になっている。


両親も先生も、子供の行為を「目的のもとに記述することは不可能だ」「あらゆる行為は、柔らかな土からできている地面を流れていく水のように、経路を多数潜ませている」という認識をもって見ることはとても難しい。しかし、虫や動物そして人間を観察する人々の中には、そのような認識力をもった人が少しだけいて、子供たちの案外近いところにいるのである。


そういえば、「d/SIGN」というデザイン雑誌は、戸田ツトム鈴木一誌が責任編集をしており、この記事は「心のデザイン」という特集記事に入っている。この特集は、人間の心のあり方をテーマにしつつ、同時に「30歳からのデザイン再入門」のための特集であると二人は語っている。
彼らは、今、「悩める若いデザイナーに出会う」ことがとても多いと語る。それはデジタル技術を核にすることによって、デザインとして先鋭化してきたが、同時に過酷になっていった仕事環境によって起こったことであると考える。その悩める若いデザイナーたちに必要なのは、デザインの技術のツボではないだろう、今、彼らに必要なのは、心身の問題を探ってみることなのだと語っているのだった。


この特集で「行為の宙づり状態」が積極的に肯定されるのだ。
あの戸田ツトム鈴木一誌が、フリースクールのお兄さんみたいになっているところが、なんだか苦笑してしまう。時々、私はその人個人のやさしさではなく、時代のやさしさというものを感じるところがあるのだけれど、この「d/SIGN」の今号の特集には、個人では決して醸し出せない、複雑な色合いのある時代のやさしさが感じられて、少しうれしくなった。


それで昨夜のことである。私は、不登校の子たちが集まるフリースペースのお兄さんと、知り合いの作家を出会わせたんだ。すぐに酒盛りになり、実は私、すぐに寝てしまって、そこでどんな会話がされたのか、ぜんぜん知らないのである。とても無責任な大人なのだった。