保坂和志さんの本に、自分が登場してしまうことで、起こること

友人Tから保坂和志さんの本に「ワタナベさんが出ているよ」といわれていて、ちょっと忙しく、なかなか読めなかったのだが、やっと『小説の誕生』(新潮社)を手にいれたのである。
確かに出ている。「私の延長は私のような形をしていない」という章。


「先日、友人のTからこんなバカバカしい話を聞いた。Tというのは私が書いた『季節の記憶』に登場する和歌山の蛯乃木のモデルになった男で、いま実際に和歌山に住んでいるのだが、月に一回か二回くらいずつ東京に出てきていて、そのTが有楽町の交差点を渡っていると向こうから見覚えのある人が歩いてきた。
『あの、もしかして渡辺さんじゃないですか?』
『あ、T君……?』
『はい、Tです。』
『T君……、あなた小説に出てたでしょう……?』
Tによると、渡辺さんという人は夢見がちというか、心ここにあらずというか、交差点の真ん中で場違いにも空を見上げて、優しく優しく語りかけるようにしゃべったらしい。
二人は交差点から歩道にもどって話をつづけた。
『あなた、『季節の記憶』の蛯乃木だよねえ……。」
渡辺さんは、Tが二十代の頃にぷらぷらしていたときの知り合いで、その後二十何年、二人は、まったく会っていないし、お互いの消息も知らなかった。だから渡辺さんは」


いや、もうやめましょう。ただで読めるネットに引用し続けていったら、保坂さんに悪いし。要するに、私が昔の友人に本の中で出会ってしまうという話なのである。本の中で昔の友人をみつけるといっても、それはルポルタージュなどではなく、小説であり、しかも友人Tは、登場人物のモデルになっただけで、彼がいった言葉はそのまま書かれているわけではない。けれど私は、「あっ、これはTだ!」と思ってしまったという、よく考えてみると、とても不思議な出来事が、その発端となる小説の制作者である保坂さんによって書かれているという話なのだ。
……しかし、引用ばかりするのもなんだが、もうちっと、違った部分を引用してみると、この本の中で「渡辺さん」はこんなこともいうのである。

「『T君……、あなたの肉体はいずれ滅びるけれど……、ああして文学の中で、永遠に生き続けるんだねぇ……』」

こんなことまでいうんですよ。渡辺という匿名性のある名前なので、私の方は「渡辺さん」というそのままの名前を保坂さんは使ったのだと思うのだけど、自分と友人との小さな出来事が本名で克明に書かれていたものを読むというのはとても不思議な体験だ。
この出来事は、このblogでも書いているのだけれど
http://d.hatena.ne.jp/hi-ro/20050202
自分が書いたものと、人が書いたものを読むのはまったく違う体験である。しかも、世界と言葉の関係をずっとずっと考え続けている保坂さんが書いたものだからね。
小説に出てきた蛯乃木を、この登場人物がいっているいくつかは、まったくTとは関係のないことだけど「ぜったいこれはTだ」と思ったように、『小説の誕生』で書かれた出来事での自分が話していることは、微妙に事実とは違うはずだが、「これはあの時の出来事が端的に言葉化されている」と確かに本人に思わせるのだ。


特に「T君……、あなたの肉体はいずれ滅びるけれど……、ああして文学の中で、永遠に生き続けるんだねぇ……」というキザな感じの私の発言は、はたしてそんなことを本当にいったかどうかわからないことだと感じるのだが、同時に、私ならいいかねないという言葉であり、しかし、またまた、これは、あの出来事の中心にあることを表現するために保坂さんが創作したものではないかといいう疑問が湧いてきたりする、本人としては、なんともいえない心境なのだ。
そして、あっ、これ「マルコビッチの穴」問題なのではないかと唐突に思ったりもしたのであった。


このblogでは、「マルコビッチの穴」問題を、文章を書くことの問題として何度か語っている。
たとえば、
http://d.hatena.ne.jp/hi-ro/20040807
メッセージの少ない自分としてはマルコビッチの穴問題は、私の三題噺の1つなんですけれど、「マルコビッチの穴」といっても、私が考えていたのは、他者の言語総体の穴にもぐって人の言葉を操作することばかり考えてきたのだが、そんなことをしているうちに、私は、保坂さんに私の穴に入られて操作されたのかもしれない。しかし、いわなかったとしても、Tが『季節の記憶』でまさにTらしい発言をしたように、この言葉は実に自分らしい発言なのだ。


しかも、まいったなあ、と思うのは、「肉体は滅びるとその後はどうなるかという問題」は、私を小さい頃から苦しめている問題なのだ。だからいってしまったのだろうか。でも、そんな問題、誰もが苦しみ問いかけることだよね。


そして案の定、この問題が「私の延長は私のような形をしていない」という章で展開されるのである。
その保坂さんの考察については、『小説の誕生』を読んでいただくとして、またまた驚いたのは、保坂さんはこんなことを書いているのである。


「『季節の記憶』を書く以前に私は『肉体は滅びるけれど……』なんていうことはまともに考えたことはなかったけれど、書き終わったときに私は、(中略)肉体が滅びることへの乗り越えというか対策は何もないのかと考えるようになっていた。(中略)つまり、『季節の記憶』を書くことによって『肉体は滅びるけれど……』という考えがリアリティを持つようになった。もっと言えば『季節の記憶』が『肉体は滅びるけれど……』という考えにリアリティを吹き込んだ、ということになり、読者として渡辺さんは著者と同じように『肉体は滅びるけれど……』と考えた」


なんだか、すごいことが書かれているのである。「マルコビッチの穴」問題は、私にとってとても大切な物書きである倉本四郎さんの書評の方法論について書くために、私が導き出したことであるのだけれど、もっといってしまうなら、それは読書行為ということの本質になんとか私が近づこうとするために、もってきた考えなんである。
読書という行為は、著者と読者が同時に存在する世界をねじり出すことであり……。著者である保坂さんは読者である「渡辺さん」についてこう書くのだ。


「『季節の記憶』の中に『肉体は滅びるけれど……」というようなことは直接には何も書かれていないけれど、『肉体は滅びるけれど……」という考えが著者の中に生まれて読者の渡辺さんの中に生まれたのだとしたら、二人は同じ何かを生きたことにならないか。時間というか行為というかイメージというかイメージ世界というか、しっくりくる言葉の持ち合わせがいまの私にはないけれど、とにかくなんだかそういう何かだ。」


「なんだかそういう何か」って、私もとてもいいたいことなんだ。倉本四郎さん、スパイク・ジョンズ、保坂和志さん、この三人を差し貫くものを、もう少し見続けてみよう。ちょっとおもしろいところにやってきた。このことは続けてみるつもりです。