船で暮らすこと

4月30日。午前8時前、東京湾に流れ込む京浜運河に浮かぶ船の上にいる。場所はモノレール大井競馬場駅近く。
船は、水辺ワークショップグループBOATPEOPLE Associationのバージ船L.O.B.13号。
大きな貨物船から荷物を運び陸揚げするために活躍するバージ船を、人が集うほどに改造したものである。
ある雑誌取材のため写真家であり文筆家の瀬戸山玄氏と乗り込んだのだ。
今回L.O.B.13号、横浜・馬車道にあるアートスペースBankART1929が開催している「地震EXPO」に参加する。
当日4月30日、その日は新潟からプレゼントされた10万本のチューリップを使ったイベント「チューリッププロジェクト」に加わることになっていた。そのため花を積んで出航、のはずだったが、船に乗ってみればチューリップはない。向こうに着いて、花を飾るとのこと。


出航である。バージ船自体は動力がないので曳き船に引いてもらう。予定より10数分前の出航。
BOATPEOPLEメンバーの一人少し遅れて岸辺に来たが、船はすでに動き出していた。乗ること適わず。
電車、バスなどとは違い船というもの予定より早く出ることしばしばあると瀬戸山氏。
この言葉不思議な入り方をする。聞いた瞬間、未来の自分がどこかの岸辺に立ち、今を思い出している。
水辺の公園、工場、倉庫、動きだし下方へと去っていく。
羽田空港近く。巨大な旅客機が頭上を飛んでいく。何機も何機も。


2時間あまりの航行でBankARTNYK前の河岸に着岸。なんだかわからぬうちにイベント「チューリッププロジェクト」に参加。船の屋根をチューリップの花で飾るお手伝い。その後、バージ船の前部にある居室部分を瀬戸山氏と撮影。畳2畳分くらいの薄暗い部屋。私たちはそれぞれ用事があるので、これで退去。


その夜、瀬戸山氏より電話。あのL.O.B.13号と水上生活者のことを結びつけようと。多分、最後に写した居室の空気が、水上生活者のことを思い出させたのだろう。私もその記事の方向性に同意した。


その電話が終わった後、私は水上生活者についてのある事柄を思い出した。
その思い出をここに記しておこう。


あれは1980年代のことである。パルコでオブジェに関するコンクールが行なわれた。
その審査員の一人が美術評論家針生一郎氏であった。私はある関連で、針生氏とは割合近いところにいたので、その美術展にいったのであった。その第一回コンクール時に選ばれた作品が、小さな真四角の机に水を入れたコップを並べた作品であった。なかなか緊張感のある作品だった。


その眼目は水がコップいっぱいに入れてあることだった。テービルにびっしり並べられたガラスコップの水の表面張力。
とても微細だが、張りつめた空気が広がっていくような……記憶に残る作品であった。
それから数年後のある日、私は同じように並べられたコップを見ることになる。
まったく違ったシチュエーションで。


私は90年代前期、ある原稿を書くために、元水上生活者の方々に何人か会っていた。
その一人とはお宅にまでお邪魔し話を聞いたりしていた。
その部屋の片隅に気になるものがあった。
仏壇の形をしているのだが、仏教的な雰囲気ではないものだった。位牌はなさそうで、絵が飾ってある。今の記憶では、奥に飾ってあるのは龍の絵なのだが、こう書いていると、それは定かではないという気もしてくる。水の民と龍神という思い込みが記憶を作り出しているような気もする。取材メモをとっているから、なんとか探し出せば分かるかもしれぬが。
何にしてもそれは仏壇ではなく、水の神様を祀っていたことはわかった。
それはなぜなら、その仏壇的なものの前に水のコップがびっしりと並んでいたからだ。
それもあのバルコのオブジェ展のように、幾つものコップには水がいっぱいに入れてあるのだった。
この神様は水を欲しているのだと私は思い、水の神様を祀っているのだと思ったのだった。
こうして書いていると、これも思い込みかもしれぬという気もある。宗教儀式にはあまり詳しくないから、神道の世界でこうした水の置き方があるかもしれないし、また新興宗教にこうした祀り方もあるやもしれぬ。
しかし、儀式には空間的説得力の真偽がやはりあり、この元水上生活者の振る舞いと、水が入ったコップの並んだ仏壇的なものは、何か水上生活者特有の宗教をあることを信じさせるに充分だったのである。


さて、ここで話題を変えて、昭和4年に財団法人文明協会より発行された『水上労働者と寄子の生活』(草間八十雄著)を参考に、昭和初期の水上生活者の暮らしぶりを少しばかり紹介したい。なかなか興味深いことが書かれているから。
「親分は自己所有の艀を無料で乾分に使用させ、かくして親分の店に荷主から貨物の運送が委託されると、それを乾分に運ばせる。親分から乾分の受ける給料は別に一ヶ月幾らと定まっている譯ではなく、荷主から託された貨物の運賃の中からその分配を受けるのである。親分乾分の分配率には四六と、四半五半との二た通りがある。つまり荷主から百噸の貨物の運輸を頼まれ、この運賃が百圓であるとすれば、親分である回漕店主は中四十圓を収め、乾分である船乗りは六十圓を収めるものと、親分は四十五圓、乾分は五十五圓の割合で収めるものがある譯である」


次からが興味深い。読んでみよう。
「そして假りに一ヶ月六十圓の所得がなければ乾分の生計が立たないものとし、而も或る月は四十圓の所得しかなかった時には、結局生計費に二十圓の不足が生ずるのであるが、この場合親分は『シコミ』と称してその不足額の二十圓を融通貸興する義務を持っているのである。勿論この二十圓はその翌月なり翌々月なり、六十圓以上の収入額のあった場合、これを親分に償却するのであるが、要するに親分は乾分の生活をどこまでも保證し、その安定を計るのである」


また老人の働き手にも興味深い支払いを行なう。
「然し永年の勤労者であるから、これを小艀に乗り移らせて、體力相当の働きをさせるのであるが、所得高は減じないのみならず寧ろ多くして優遇するのである。即ち所得の割合は普通親分四割、乾分六割であるが、これを親分三割、乾分七割に改め、一割分を余分に興えるのである」


これを読んでいる時も、私の脳裏には水をためた、たくさんのガラスコップが並んでいるのである。十のコップに六つのコップが動き。しかしコップの水は一滴たりとも落ちようとはしない。