『20世紀少年』をずらりと並べて

シュヴァンクマイエル展図録、念校を見ることになった。それはそうである。けっこうアカいれたもの。それぞれ関係者に連絡。まだ終わらないのですね。


仕事の合間に読み継いできた浦沢直樹の『20世紀少年』(小学館)を茶の間の箪笥の上に、23冊ずらりと並べる。まだ『21世紀少年(下)』が出版されていないので、まだ終わりは分からない。とにかく並べてみた。それから図書館に行き、扇田昭彦の『現代演劇の航海』(リブロポート)を借りてきた。


この漫画、過去の「少年時代」の時間が意図的に割られ、その断片が飛び交いながら構成されていく漫画である。読みながら思っていたことは、この手法は、70年代後半から80年代前期の演劇のドラマツルギーそのものだということだ。
この時代の演劇のドラマツゥルギーの特徴とは、背後に巨大な物語を持たぬことである。
巨大な物語とは、70年代後半から80年代前期に20代の若者だった人間の先輩格となるアングラ演劇世代が、70年前後に熱狂的に唄い上げることができた革命、逆説的なユートピアとしての満州帝国、オリンピックで崩壊された東京などの巨大な物語のことである。
しかながら、だからといって、何もない世界を淡々と描写していく、あるいは耐えていくその仕方を提示する、その後の90年代演劇のようなことはできなかった。70年前後の文化革命を少なからず経験したこともある世代としては、そう淡々と生き表現することはできなかったのである。
ということで、「巨大な物語がないにも関わらず、いかにドラマティックに世界を構成できるか」ということをテーマにしたのが、70年代後半から80年代前期の演劇であった。そして、そのドラマの唯一の拠り所が「少年時代」だったのである。


この手法が、『20世紀少年』には使われている。それから顔を隠すお面の使い方など、漫画というより、演劇的な手法が使われていることも気になる。
浦沢は、ディランファンとして知られているが、この漫画、どこかローリングサンダーレヴュー時代のディランのあり方と通じるところがある(60年代文化革命の距離感、仲間をもう一度獲得すること、歴史の再編集など)。あるいはローリングサンダーレヴューのディランの熱気、演劇性、顔の化粧が、お面、転じて70年代後半から80年代前期の小劇場演劇のドラマツゥルギーと共振していくのだろうか。


この漫画が私にとって興味深いところは、
突拍子もない長征としてのローリングサンダーレヴュー、なんとかドラマティックであろうとした70年代後半から80年代前期の小劇場演劇、自作自演のドラマ作りであった1995年のオウム真理教事件体験が絡み合わさってできているところである。もっといってしまうなら、1970年前後の文化革命から遠く離れてしまったが故に、顔に化粧をしたり、お面を被ったり、カブリモノをつけ、つまり、顔を変えて行なう「出直しの文化革命」の夢や悪夢を描こうとしたところだ。


革命は一瞬にしてすべてを変えることである。そうであるなら、顔は人体の中でもっとも革命的である。だけど悲劇は、人は何十年も時間をかけて顔が変わってしまうことだ。この悲劇が常にキャタクラーを統一しなければいけない漫画で演じられている困難さ。この結末はどうなるのだろうか?