シュヴァンクマイエル展店員日記(2)

8/27(月曜日)早朝6時に起きて、図録用のポップを作る。それと日報を作る。Excelのことをよく知らないので、昨日はひとつの表組を作るのに1時間もかかってしまった。そんなことにならないように注意して作成。昨夜校正したゲラ、担当者にFAX。そしてこのblog書き。ああ、もう出勤時間である。「この話の続きはお店でしましょうね」と書いてコンピュータをoff。


電車の中で『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)の第二巻読む。イワンとアリョーシャの会話場面。いよいよキリスト教論へと入っていく。ドストエフスキーは最終的には書くことができなかったが、その構想によればこのアリョーシャはテロリストになるのだ。そのことがふと甦る。次に高祖岩三郎『ニューヨーク列伝』(青土社)を解体した部分「情動の街」を読む。ニューヨークの女たちについて。タイムズ・スクエアについて唄ったマリアンヌ・フェイスフルのこと思い出す。ニューヨークの教会で彼女が唄っている。その唄を山手線の電車の中で聞いている。


売店へ。準備をしているとすぐに開館。客足は休日とは違っているが、ひっきりなしの入場者。本日は店員少ないため、レジ係をずっとする。これでは動向調査できないではないか。なるべくお客様に話そうとする。しかしレジを売ってお金をもらい、釣り銭を渡すと人はすぐに帰ってしまう。どのタイミングで声をかければいいのか。釣り銭を揃えている時に話すのがいいのだが、そうすると間違いやすいし、また相手にとってはお金を誤摩化す感じになってしまう。釣り銭を的確に揃え、ほんの少しだけ余裕をもったスピードで相手に戻し、同時に後ろに並んでいる人がいないのを確認して、話かける。何度か繰り返していくうちにタイミング掴んでくる。


やはりここは原宿、UNDERCOVERの影響でシュヴァンクマイエル展に来た人が多い。あるいは映画を見てファンになり、この美術展に来た人も。葉山の展覧会を見ていない人が多い。ということはここ1年くらいでファンになった人か。NHK日曜美術館を見てきた人もいた。「この展覧会、どうでしたか?」と聞くと「よく見れなかったよ」と男性の老人。「目が見えなくなってきてね」という、顔を見ると確かに瞳の色が緑色がかっている。「映画の『ルナシー』の時は見れたんだよ」という。ならば最近まで見れたのですね。「糖尿病とか他の病気を併発して」という。しかし、よく見れなくても美術展に来るなんて、素晴らしい。


ゴスロリファッションを観察。何人もの人の服をそれなりの時間をかけて見てわかったことだが、細部がとても面白い服なんだな。レースの付け方とか、ものすごく凝っていて魅力的なのだ。今まで、ゴスロリという言葉のイメージで捉えていたことがわかった。断片化された細部がコラージュされた服なのだ。何故、そうなっているのかといえば、彼女たちの、いや日本人の欧州の服に対する無知のせいなのだろう。今回の図録で山形浩生は「『アリス』のイメージの固定化に刃向かう数少ない作家、シュヴァンクマイエル」とテクストの中でこう書いている。


「そしてキャロルの小説を越えたところまであのイラスト(ジョン・テニエルの挿画)は規定してしまっている。19世紀の女の子といえばあんな格好という イメージを、ほとんどの人は絶対不動のものとして抱いている。それが証拠に、19世紀的なファンタジーをもとにした、日本の女中喫茶のファッションも、あのイラストのイメージに明らかに影響されている。ほとんどの人は、あれ以外に19世紀欧州の文物に接する機会がほとんどないからだ」

ゴスロリとアリスファッションは違うものだけれど、「19世紀欧州の文物に対する無知」は共通することであろう。その僅かな知識の断片が研ぎすまされ、コラージュされているのがゴスロリファッションの魅力なのである。そして彼女たちがシュヴァンクマイエル展に大挙してやってくるのは、このコラージュ性に惹かれているからなんだろう。


またまた今回の図録なんだが、阿部賢一は「<プラハ>という磁場、<シュルレアリスム>という磁力」というテクストで、シュヴァンクマイエルのコラージュについてこう書いている。


「(イジー)コラーシュとシュヴァンクマイエルというまったく異質の『コラージュ』芸術家がプラハという磁場において存在していたという事実は、注目に値するだろう。たしかに、『コラージュ』の捉え方という点において、両者は正反対の姿勢を見せている。コラーシュが新たな知覚を模索しようとしているのに対し、シュヴァンクマイエルは抑圧された無意識の復権を唱えようとしている。換言すれば、コラーシュが理知的な世界における新たな地平を探求しているのに対し、シュヴァンクマイエルは幼少期などの意識の奥深くに眠る地平を呼び起こそうとしている」


そう、ゴスロリ少女たちが発見したシュヴァンクマイエルのコラージュは、知的に彼女たちを傷つけたりはしない。実に優しく欧州のことをまだよく知らない幼少期へと誘い出すコラージュなのである。欧州人の意識への奥深いところへと行こうとする厳しい探求が、同時に東洋のある少女たちへの優しさになってしまう構造。これはまさに倒錯だ。


(その前提として、19世紀のゴシックを、中世に対する無知を偽装した中世文物の断片の集積と捉え、それを服として着こなすことによって、ゴシックを無知をエンジンとする無限世界への移動装置に変えてしまったという日本少女たちの巧妙な戦略があるんだけどさ)


アリスのような姿をした少女が、アリスの本を立ち読みしている。澁澤龍彦ならば、少女が描かれたミルク缶を持つ少女という無限世界のことを思い出すだろうか。アリスの本を立ち読みしているアリスのような姿をした少女を見ている自分はアリスなのだと考えれば、その私を見ているひとまわり大きなアリスがいるのであり、その光景を開いて見ている巨大なアリスはやはりいて……などと(澁澤というより三上風に)考えていると、いきなりアリスの姿をした日本の少女がレジの前に立ち、「この本を下さい」という。無限世界は2625円の金銭によって断ち切られたのだった。