カット割、葉の重なりの膨大なヴァリエーションを利用して写真を繋げる

hi-ro2007-09-24


また渋谷に行って映画「サッドヴァケーション」を見てきた。
再度見た理由はふたつ。
まず、映画館を巨大なスナックのカウンターにして、視線ごと酔いつぶれたかったから。一回見て、視覚のアル中は、演歌を有線でリクエストするようにこの映画を2回見れると思った。物語に登場する母親と息子との切れない関係も、弟殺しも、無垢な白痴の女性も、すべて演歌の詞のように紋切り型で、しかも、星よ港よなどの陳腐な言葉の一音一音に対する音圧が尋常でない楽曲が優れた演歌であるように、母親が息子をみつめる視線が、鋭いだけの弟の顔貌が、無垢な女が語りかける鳥がいる空の上部が、フィルムにくっきりと映っている。シネマライズは大きな大きなカウンターとなり眼球はうれしそうに転がっていったよ。映画に甘えてね。お兄さん、お兄さん、ケンジさん、ケンジさん、ケンジさんといって。


もうひとつの理由は、これをきっかけにある決意を固めようと思ったからだ。
この映画「サッドヴァケーション」では、現在の商業映画の文法でいえば奇妙な編集が時々されている。ある一定の時間が流れているシーンを、ずっとそのままロングシーンとして提示するのではなく、また、「ある時間が流れました」ということを示す定型のカット割を使わず表現している。音楽の流れに対してレコードの針が突如飛ぶような形で、あるカットがかなりぶっきらぼうにそして鋭く繊細に切られ、次のカットに繋がってている。ロングシーンを適当に切って繋げたという形になっているので、次のカットもカメラの視覚の位置や登場人物の動きもそれほど変わらない。しかしある一定の時間は表現されている。唐突だが鋭く繊細な感じがとてもいい。これはいける、と私は思ったのだった。
さて、これからは「サッドヴァケーション」も青山氏の才能ともまったく関係ない話です。「これはいける」と思った以降の考えを綴ります。


この無造作な、しかし、ある一定の時間を表しているカット割を見て、俺はまたまた角田純一のことを思い出してしまったんだ。アードディレクター角田は、雑誌『HOME』(エクスナレッジ)に於いて次のような実践をしていた。たとえば2003年のSEPTEMBER号ではアルネ・ヤコブセンが設計したオーフス市庁舎を表現するために、このような見開きを作った。写真家はアンダース・エドストローム。ぱっとみると、その見開きは一枚の横長の写真に見えるんだ。建物をほんの一部写して前面は樹木の葉ばかりが見える写真なので、ページを開いた一瞬の感じは、森の向こうにコンクリートの建物がちらりと見えている感じだ。しかし、すぐにそれは右ページと左ページは別々の写真であることがわかる。この市庁舎の建物を別々に撮ったカットが右と左にぶっきらぼうに置かれた見開きなのだ。

しかし、視線はまた気付く。左ページの写真はぱっと見ると1枚に見えるが2枚が組み合わさっているものなのだ。右端は、メインになっている写真の右端部分がコピーされ接合されている。とすると、と思って右ページも見るとやはりそれは1枚に見えるようで2枚の写真であり、右端は同じようにメイン写真の右端のコピーが繋がっている。
「繋がっている」という言葉の中の「繋」という漢字の感じがぴったりのありさまで、樹木の葉のごちゃごちゃしたところが接合されているので、さっと目にはわからない。しかしトリックをするように隠されているのではなく、けっこうあからさまに、そう、あの音楽の流れに対してレコードの針が突如飛ぶような形で、繋がっている。こうすることで「サッドヴァケーション」のあのカット割が時間を表現しているように、ここではアルネ・ヤコブセンが設計したオーフス市庁舎のロケーションが表現されている。
多くの建築雑誌が建築写真をその対象である建物のロケーションを示すために、ある約束事に従って並べているように、角田純一は雑誌『HOME』で約束事を自前で作って、写真を並べていた。
この並べ方、カット割について、人はあまり意見をいっていないけれど、建物のロケーションを示すのに、とても有効な仕方なんだと私は思う。


写真表現にとっては特別な対象となる葉の重なりを的確に使用すること、葉の重なりの膨大なヴァリエーションは人間の認識が追いついていけず、そのためにある全体性が予感されること、このことを利用すること、映画カメラのパンニングの手法を写真カメラに戻してみること、写真家のトリミングを映像のコピーによって侵犯してしまうこと。
こうした方法のこと忘れないようにしよう。これはぜったい使えることなんだ。
あの映画を初めて見た時、あのカット割に遭遇した時、唐突さ、繊細さ、風景への畏敬が同じだなと思ったんだ。だから思い出させた。角田純一のことを。そして「いける」と思った。角田の方法についての決意のために。
ある決意というのは、「この方法のことを忘れない」と自分に言い聞かせることだった。
「サッドヴァケーション」をもう一度見た理由のひとつは、このことだった。