昨日は、編集/ライターの河上進さんと、入谷の「なってるハウス」で落ち合った。
OKIDOKIのライブを見るためである。
多田葉子(alto sax,pianica,etc)
臼井康浩(guitar)
関島岳郎(tuba,recorder,etc)
即興演奏を行うグループである。
よい演奏であった。楽しめた。


店を出て入谷から鴬谷まで歩く。その間、河上さんが音楽について短い感想をいう。一緒にいくつかバンドを見たことがあるが、いつもその後の彼の発言に、はっとする。音を微細に聞き分けている。そして言葉に勢いがある。かなり、気を入れて聞いてるんだな、とその度に思う。


鴬谷駅前の飲み屋に入って話。今現在、二人の共通関心事項は、中里和人さんの動向であろうか。中里さん関連の「マジカル・ミステリー・ナイト・マイクロバスツアー」について(この旅の呼び名は、渡邉が勝手につけているものです)。
写真家の流れで、私がネットで見つけた気になるロシアの写真家の話をする。プリントアウトした作品を、河上さんに見せる。
(以上、1月15日の記録はこれまでにして、このblogは、写真家紹介のテクスト、私が創作した小品へと移っていく)


■ピヨトル・ロヴィギン(Pyotr Lovigin)という名の写真家である。
All Tomorrow’s Girlsというブログで教えてもらったはず。

この写真家のサイトに行った。
http://lovigin.livejournal.com/ 
ロシア語なので、シュヴァンクマイエル展でお世話になった美術研究者ロディ・オンに教えを請うた。
ピヨトル・ロヴィギンは1981年生まれ。現在、ヤロスラーブリ大学で建築を教えながら写真を撮影している。
「このロヴィギンの芸術の特性を『コスタリカ・ジャマイカ』のシリーズの写真を見るとよく感じることができる。
コスタリカ、ジャマイカは外部にあり、地球の上どこかあるのでではなくて、魔法的な世界にある国と見られている。日常的な住み方と違って、完全な自由さがあって、想像力を生かせる天国に近い地方だ。ロヴィギンはこの国の写真日記を構成するだけではなくて、ヤロスラーブリの自分の町でもコスタリカ、ジャマイカの視覚文化と性格を生み出そうとしている。ぜんぜん似ていないロシアとコスタリカ、ジャマイカのぶつかり合いによってパラドクス的な印象、夢のような効果、超現実的なイメージあるいは幻覚に近いエフェクトが行われている」
ヤロスラーブリは、モスクワよりもっと北にある古都。そこへ行って、ピヨトル・ロヴィギンと話がしてみたい。彼のいうことが、私にはとてもよくわかるのではないだろうか。



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「東京人としてのスプーン曲げ少年」


足が地についていないせいか、自動ドアにはよく挟まれていた。
そんな自分だからつけこまれたのか、あの頃、写真をばらまくぞと脅されていた。


カメラのシャッターが落ちるようにドアに挟まれる。その瞬間、ストライプのスーツにネクタイそして長髪の痩せた私が「イテ〜」というと、どの会社の受付の娘も、ころげるように笑った。声をかけるのは簡単だった。名刺に印刷された週刊誌の名前も肩書きも効いていた。


フランス語のメニューも仏文出身だったので読めた。下着の話題にも応じられた。テーブルの横を通り過ぎる伊丹十三にも挨拶をした。青山育ちで小さな頃からロックコンサートに行っていた。様々なジョークに対する彼女たちの反応。女性特有の捩じれた躊躇。しかし私の有無をもいわせぬホテルのドアへの直進。ドアを開く、素早く閉める。様々な女たちの様々な形をした女のからだ。閉じられたそれに指を少しずつ入れていくのが好みだった。強く挟まれ驚いた顔をすると、女はやはり笑うのだった。


ちょうどあの日は、会社の写真スタジオでの撮影に立ち会っていた。
撮影する前、少年はカメラマンに突然「念写を見せる」といいだした。大人たちに囲まれて、借りたポラロイドカメラを額に押し当て、少年は険しい形相で力を込めシャッターを押した。
しばらく経って画面に出てきたのは、奇妙な角度から撮られたモノクロの東京タワーだった。すごい空中への浮かび上がり方だ。
しかし混乱してはいけないと、カメラマンに目配せした。


暑い夏の午後だった。銀行で給料2ヶ月分の金を下ろし、それをもって西日暮里の喫茶店へ行った。ストライプの壁紙をバックに葬儀屋のような男が待っていた。
金を渡し引き取った封筒に入ったネガの中に確かに私はいた。
白黒反転の世界で私は餓鬼だ。口を白くあけ叫び罵り哭き、阿鼻叫喚の地獄の中にいた。
外に出ると季節はなく、アスファルトは蜘蛛の巣の線で干涸びていた。


編集部に戻ってみると机の上には焼かれた密着写真があがっていた。手に取ろうとすると、太い声で局長に呼ばれ九州に誰か行かせてくれといわれる。水俣病の偽患者がいるという。記事を作れという命令だった。返事もせず自分のデスクに戻り、密着写真をルーペでチェックしていく。


小さな白黒連続画面の中、少年は、スタジオの床に膝を着いた状態で写っている。ずっと彼はそのままのポーズでいる。カメラマンの助手のシルエットがスプーンを渡す。少年がスプーンを握る。それからスプーンを凝視する。しばらくその姿が続いた。突然、空に向かって声を発するように大きな口をあける。その次のコマだ。少年がスプーンを床に叩きつけている。決定的瞬間だ! 思わず声を出したのか、皆がデスクのまわりに集まってくる。局長の太い腕が密着写真を奪っていこうとする。それを阻止しようと揉み合っていると、机の上に積まれた書類が雪崩のように崩れていき、あのネガの入った封筒とともに床に散らばっていった。 


黒白の市松模様の床に這いずって書類を整理していると、先の尖ったハイヒールが見えた。あの女だ。見下ろしている。そう、私の妻は役員の娘であり、私はたくさんの女と関係し、それがもとで脅されてもいる。黒いストッキングに包まれた脚。あざ笑うがいい。


長髪の私は顔を上げない。「編集長、印刷機を止めるという電話が」という冷たい女の声が降ってくる。立ち上がり、女の顔も見ずに局長のところへ走る。記事の差し止めだ。中国人女性歌手のスキャンダル問題。しかし、それには電力会社の原発の亀裂一本が絡んでいる。
グラビア最終1ページ、世界の名画を紹介する美術記事を担当しているプロダクションの社長に連絡をしなければならない。こういう日のために、若い読者が軽蔑しきっているあの「世界の名画の旅」はある。デスクの書類の山から電話を探し出し連絡をすると、嘘のようにすぐプロダクション社長がやってきた。入道のような恰幅のいい男の入場。誰もがこいつの指示に従う白黒逆転の長い夜が始まるのだ。


明け方直前の午前4時。額に大きな瘤のある入道が、相手方の芸能プロダクションの社長と電話している。
歌手の話など一言も出ない、しかし話は際限なく広がっており、局長も私も誘拐された子供の家族のように、その折衝を聞いているしかない。ふと気がつけば局長が例の密着写真をもっている。奪いかえそうとすると、ラグビー部出身の局長が抵抗し、応接セットのソファで揉み合う。「君達、何をやっているんだ」と入道がいう。その隙に写真を奪い、窓際まで逃げた。写真をもう一度見ていく。後ろで入道の声がする。
「大日本の工場、動きだすそうだ」「条件は?」「先週の記事の技師の名前」
「それから責任者の交代」
太陽が昇ってきた。


少年は、大地に膝をつき遠くを見ている人として登場する。ずっと彼は遠くを見続けている。
しばらくして、スプーンを手にとり握る。ふと手を下に向ける。
突然、大空に声を発し、自分が立っている地平に思いきりそのスプーンを叩きつけた。亀裂が1本、地平線の向こうまで走っていった。


役員の娘であった顔色の悪い妻は、数年振りに見るその封筒をバカラのグラスの横にそっと置き、ため息をついた。父親の葬式の夜だったので喪服だった。その前でうなだれている私も黒の礼服だった。痩せていて、長髪で。


その後、妻は妊娠した。臨月が近づくにつれ、頬に赤みがさしてくる。
男の子が生まれた。のんびりとした子供だった。鉛筆デッサンに淡い絵の具が塗られていくような日々だった。


子供が小学校に入学した。父親である私に、最初の時間割りを、紙を開いて見せてくれた。
小さな白い紙に印刷された、黒い縦線と横線。
のっぺらぼうの幼児の時間に亀裂を入れられたのだ。
静かな日本人のつつましい割礼としての時間割。
横に走った線に並べられた曜日と縦線に並べられた時間。黒い縦線と横線で作られた小さな升に几帳面に印刷された科目。
小さな紙の上の小さな時間割。しかし、羽化した蝉が最初は透明だが時間がたつにつれ色を濃くしていくように、この小さな図面が人が立つべき地面になるのだ。私は子供を抱き締めて、「父さんも一年生のつもりで勉強するよ」といった。


webマガジンをまかされていた。マンションの前に立つのはいつも深夜だった。もう地に足がついたかどうかもわからない。いつでも暗証番号を覚えていなければならない。深夜、いつも私は数字を間違えて。どんなに地団駄踏んでも、この自動ドアは開かない。


そして透明なドアの向こうの空間。
数年もたてば、マンションの部屋で、男の子は父親の部屋から盗んできた古い週刊誌のグラビア写真を見ながら自慰をするだろう。奇妙な姿勢で。その部屋の窓から奇妙な角度で見える、東京タワー。