アジアハウス論

ここで何度か触れた山形国際ドキュメンタリー映画祭で出会ったスペース「アジアハウス」についての原稿を掲載します。
雑誌「CITY&LIFE」で書いた山形国際ドキュメンタリー映画祭についてのレポートと重なる部分がありますが、異なる視点で書いています。





●アジアハウス論


 「アジアハウス」というスペースを紹介しよう。山形市本町にある小さな古い4階建てのビル改造したものだ。1階はカフェ、2〜4階は山形国際ドキュメンタリー映画祭の外国人関係者用の宿泊施設、地下1階はレクチャーなどが行なわれるスタジオになっていた。映画祭期間中(2009年10月8〜15日)、宿泊施設をメインにしたスペースである。
 カフェでは閉館された市内の映画館の座席が使われている。まちの記憶を上手に使ったインテリア。1990年代以降現れた、古い建物をリノベーションしたカフェなどで多く見られる手法である。カフェ部分だけではない、シンプルな家具、押し付けがましくないアート感覚、どこか懐かしい空気感……、建物全体がここ10数年のカフェ文化で培われてきたスペース感覚で満たされていた。
 この場所で、アジアハウス設営に携わった人物に話を聞いたのだが、その人の口からドキュメンタリー映画作家の小川紳介監督の話が出た時、とても新鮮な感じを覚えた。
「小川さんたちは、この山形に来て、カメラをまわすまでに数年かけているという。その時間をかけているということ、その方法にはまちに開かれたアートを行おうとしている僕たちが学ぶべきものがある」という言葉だ。
 この山形国際ドキュメンタリー映画祭は、山形市の市政100年記念行事を考えていた行政関係者から声をかけられた小川監督がきっかけとなって1989年から開催されてきた。そのため関係者から話を聞けば、(92年に亡くなっている)小川監督の話は、立ち上げに関わる重要人物として当然何度も出てくることになるのだが、アジアハウスで聞いた先の言葉はそうしたものとは違っていた。ある世代にとっては非常に政治運動的な小川監督率いる小川プロの実践が、アートとまちの関係を考える視点から新たに解釈されていたのである。
 ここで私は、かつて「三里塚シリーズ」など反体制文化の中の最も先鋭的な作品を製作してきた小川プロの実践と、今年映画祭に登場したカフェ空間的な宿泊施設を結び、アジアハウスがもっている意味を考察してみたい。


●小川プロの生活現場と闘争現場を結ぶ想像力

 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、89年より2年毎に開催、今年で第11回を迎えた。2005年まで山形市が、07年の前回からはNPOとなった山形国際ドキュメンタリー映画際が主催している。
 第1回を準備している時期に小川監督によって集められた地元の人々と市役所の人間が初めての映画祭を運営しだした。
 山形の映画祭で興味深いのは、まちの人々が映画を見に来るだけでなく、映画祭に関連する居酒屋や新聞編集部、宿泊施設の運営にかなり積極的に参加しているところだ。そのひとつ、映画祭の宿泊施設として機能したアジアハウスについて語るために、まずは映画祭前史ともいうべき小川プロの活動を振り返ってみよう。
 1968年、小川プロは三里塚闘争の現場に入り撮影を開始、以降「三里塚シリーズ」七部作を連続的に発表していく。その6作目『三里塚・辺田部落』(73年度作品)は、激しい闘争シーンを写し撮っていたそれまでの作品とはうってかわって、辺田部落という共同体で暮らす人々の姿、言葉、表情を前面に出し、それを通して空港闘争が描かれているというものであった。この上映活動の中で小川プロは山形という土地に出会うことになるのだが、ここで作品自体の意味を考えてみたい。
 60〜70年代の文化闘争から生まれた思想的課題の一つに、具体的な闘争現場と自分の生活現場をどう結びつけるのかというテーマがあったと思う。たとえばデモに行っている仲間と、職場で働いている自分を結びつける想像力や、遠く離れたベトナムと自分が関連する企業や学校がどう関連しているのかということが真摯に問われ、その答えとして様々な実践が試みられた。
 その一つとして、小川プロが行なった試みは、闘争現場の中に生活現場を発見し深く潜行することだった。具体的には三里塚の農民と寝食を共にして撮影をすることであり、共同体の運命に絶えず自分の行為をひきつけていく農民たちの言葉を聞き入ること、表情をとらえることだった。その実践の積み重ねとして出来あがったのが、映像として過激な闘争シーンがほとんど出てこない『辺田部落』だったのである。
(自分の生活と闘争現場を繋げていく考え方は、社会変革に向けての積極的な行動に繋がっていくが、同時に社会変革集団の規律に安易に繋がっていく危険性をもっている。こうした想像力は自己の幻想内にある限り正しいが、集団的幻想になる時、集団内部でメンバーの戦闘性の評価に繋がっていき、その最も極端なケースは「総括」、「粛正」へと変貌していく。社会変革を目指す集団には常にそうした問題を抱えているし、小川プロもそのような傾向をもった集団であったことは忘れてはならない)
 『辺田部落』は高い評価を受けたが、小川プロ内部では大きな問題を抱えたようだ。共同体には深く入り込んだが、その要となる農作業が充分に撮れていないという問題だ。もちろん映像としてはかなり撮影されていたが、それは「農作業は汗であり苦労であり、という形でしか迫れてない」と「総括」されたのである。そこで彼らは「僕たちが村いちばんの田植えができるようにならないと、農作業は撮れない」と決意する(1)。生活現場へのより深い潜行である。
 小川プロは73年5月より『辺田部落』の全国上映活動を始める。これは同時に、自ら農作業を行なう次の根拠地を探す旅でもあった。東北上映を担当していた小川氏はこの旅で、翌年、山形県上山市牧野部落への移住を誘うことになる農民詩人たちと出会う。その誘いを受け小川プロは準備期間を経て、76年牧野部落に本格的な移住を行ない映画づくりを始める。そこで製作された代表作が13年もの時間をかけた『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(86年)だ。240年前の一揆を村人たちがプロの役者たちと一緒に再現していくシーンを核に共同体の歴史や文化がゆったりと展開されていく作品である。そして、この土地で培った人間関係の中から映画祭開催の話が持ち上がるのである。


●山形ドキュメンタリー映画祭スペース史

 アジアハウス。古ビルをリノベーションしてできあがった映画祭用の宿泊施設には実は前史がある。同じ名前の施設が97年の第五回より山形の住民の一人によって、自宅を期間中宿泊施設に転用して運営されていたのである。その名が示すように、当初はアジア諸国からきた映画関係者に向けてつくられた施設であった。
 市民が自分の家や店をアジアの映画関係者に開放していくこと。それはこの映画祭ならではの来歴と関係している。1989年10月、第1回目の映画祭が開催されるのだが、発起人の一人である小川監督はアジアのドキュメンタリー映画の活性化を目論んでいた。しかし現実としては80年代のアジア諸国でドキュメンタリー作品はまだ多く撮られていなかったこと、冷戦時代末期の各国の政治情勢の影響などで、かなり難しい試みとなった。
 それでも招待された映画作家たちの交流は90年代以降隆盛するアジアのドキュメント映画の流れを作ることに繋がっていた。そしてもうひとつ、山形に滞在したアジアの映画作家や関係者たちの姿は、このまちの人々に強い印象を与えることになる。
 それはファミリーレストランなどで一杯のビールだけで長時間話し込んでいる姿、あるいは喫茶店で注文したコーヒー一杯の値段が、その人の国では一日分の食費と同じ金額だったという話……。こうした見聞し噂された話が山形の人々に共有され、アジアの関係者にも安心して飲みながら話すことができる居酒屋をつくろうというアイデアになっていく。そこでできたのが、93年の第3回からオープンした「香味庵クラブ」だ。
 漬け物屋のレストランとなっている店舗を期間中夜間借り受け、午後10時から午前2時まで営業する店だ。客は入場料として500円を払うと一杯の酒とおつまみを渡される。後はどこかの席に紛れ込み、今日見た映画の話などをきっかけに話し始めればよい。その後、もっと飲食をしたければ、非常に安い値段で酒や山形名物の芋煮などが注文できるというシステムの店だ。
 映画祭期間中というお祭り気分と映画好きという仲間意識が合わさって、自由なコミュニケーションが展開できるのが、この店の魅力だ。この楽しさを求めて映画祭に来るリピーターも多く、今では世界の映画関係者にKomianの名はかなり知れ渡っているようだ。香味庵を一段階目として映画祭をめぐるコミュニケーションスペースの進展はさらに続く。
 映画祭の目的の一つであるアジアのドキュメンタリー映画の活性化は、90年代中期から徐々に現実化してくる。ビデオ機材の普及などによって、昔に比べれば格段に安い資金で映画を製作できるようになったからだ。できあがった作品は、他の作家を刺激し新たな映画が生まれる。また映画製作を目指す若者たちも多くなっていく。90年代中期以降、山形国際ドキュメンタリー映画祭にやってくる中国、台湾、韓国などの映画関係者、学生たちが増えていったのだ。
 こうした状況の変化に応える形で香味庵の宿泊施設版が必要とされてきた。招待者はホテルに宿泊できるが、それ以外の外国人の宿泊が問題となっていたのである。97年、山形市の市民の一人が自宅の倉庫を開放してアジアハウスという宿泊施設をオープンする。30人くらいの人たちがザコ寝するようなところだったらしい。その人はたちまち宿泊施設での人々の交流に魅せられ、倉庫を改造しカラオケ機材を手に入れるなど、より積極的に運営していくことになる。このあたり、香味庵の楽しさを考えるととてもよくわかる。しかし家族の方が亡くなったなどの理由で、2005年の第9回を最後にその活動は終了した。
 そして今度の第11回に新たに登場したのが、私が訪れたアジアハウスなのである。


●山形R不動産から始まる

 アジアハウス・プロジェクトは山形市にある東北芸術工科大学の学生や卒業生たちを中心にして行われた。
 出発点は、昨年から大学で教えるようになった馬場正尊准教授が提案した「山形R不動産」というプロジェクトだった。建築家であるとともに、東京R不動産というリノベーションができる物件を紹介する不動産業を仲間と営んできた馬場准教授は、着任早々学生たちに山形市内の空き物件を探すことを呼びかける。探し出した物件を使って、不動産業ではなく、まちなかで暮らすことを提案するプロジェクトとして設定されたのが山形R不動産だ。
 何故、「まちなかで暮らすプロジェクト」なのか? 馬場准教授は、大学のホームページで次のように書いている。
「今、日本じゅうの商店街は空洞化に苦しんでいる。同時に、さまざまな活性化案が考えられているが、どれもなかなかうまくいっていない。それは商業地を、商業の再生で再生しようとしているのに無理があるのではないか? 僕らの提案は、まちなかを『住む』エリアとして捉え直すこと」だと(2)。
 最初に手掛ける物件は山形市本町にある元旅館のビルに決まった。この建物は三沢旅館という名前だったことから「ミサワクラス」と呼ばれる。プロジェクトが始動する直前、馬場准教授は、このスペースにただ学生たちが住むだけでは、まちを活性化する企画としては弱いのではないかと考えだす。そこで同じ大学の美術館大学センター主任学芸員の宮本武典さんに相談することにした。
 宮本さんは東北芸工大の美術館、美術大学センターを拠点に、地域に開いた美術活動を続けてきた人物だ。最近では、山形の湯治場、肘折温泉でのアートイベント「肘折版現代湯治2009」の運営の中心を担っている。絵画や舞踏などの作品が発表されたイベントだが、核になっているのは、開催地にアーティストが出かけていき、そこで作品を作り出していくアーティスト・イン・レジデンスという方法だ。
 宮本さんがミサワクラスからアジアハウスへの流れを説明してくれた。
「馬場さんの相談は、ミサワクラスを一種のアーティスト・イン・レジデンスができるスペースにするために、作品製作を行っている若者を紹介してくれということでした。暮らしながら同時に表現ができる場所ということをより鮮明にしたいということだったのです。そこで僕が漆工芸や映像表現を行なっている卒業生などを紹介、馬場研究室の学生たちと併せて12人の若者たちが、住み込みながら改造していく作業がこの春から始まったのです。その作業の中から映画祭のある10月にこの企画のプレゼンテーションをしようという意見が出てきました。映画祭は世界から人を呼べるクオリティと規模をもっている。デモンストレーションするにはよい機会だと思ったわけです。その時、ちょうどミサワハウスの隣のビルが借りられることがわかったのでした」
 使われなくなったビルを改造し、そこで住むことと表現することを同時に行うことで、山形のまちを活性化する企画。それを多くの人に知らせること、また支援者をみつけることを目的に、隣のビルでの映画祭期間中のプレゼンテーションが考えだされた。そして映画祭事務局との折衝が行われていく中で、外国から来る人々を宿泊させていく施設を作るという話にまとまっていく。これがミサワクラスの隣にあるアジアハウスの成り立ちだ。
 9月から改築が行われ全部で11人が宿泊できる施設とカフェ、スタジオを備えたアジアハウスができあがった(宿泊は一泊1000円の予定だったが旅館法などの関係で最終的に無料となった)。スタジオでは開催期間中、馬場准教授や民俗学者赤坂憲雄さん、アートディレクターの北川フラムさんなども参加する連続レクチャーも行われた。


●カフェというスペースの意味

 宿泊スペースを実際に見てきた。そこはドミトリー(相部屋)になっており、貨物の運搬などで使う木製パレットで組まれたベッドが置かれていた。「移動」という言葉を喚起させるパレットが旅人の寝床になっていること、映画のスクリーンのように人の顔などがコピーされた窓のカーテン(2003年の映画祭で上映された中国のドキュメント作品『鉄西区』<王兵監督>から引用されていた画像だった)、まちの記憶に結びつく、カフェに置かれた閉館された映画館の座席……、こうした表現の仕方は今回のプロジェクトの要となるものだろう。
「僕はこの大学に5年前に来て、地域に開いたアートの試みを続けてきました。その経験を踏まえていうなら、山形の一般の人々はアートへのニーズはそれほどもっていません。これは日本の地方都市の現実だと思うのですが、ではどうするか。ひとつの方法として、まちなかに出ていって、暮らしに必要な機能性もったアートを作る方法があると思います。たとえば家具だけれども作家の表現としてつくられたモノ。今回のベッドや人顔がコピーされたカーテンなどはその一例だと思います」(宮本さん)
 この「機能性と表現の一体化」は、冒頭に述べたアジアハウス全体に感じられる「カフェ文化に培われたスペース感覚」と深く結びついていると思う。90年代隆盛してきた自営系のカフェの特徴は、飲食をサービスするという機能と自己表現が一体化されているということだった。店の経営者の多くは70年代以降、飲食店やその他の施設できめ細かく行われるようになったサービスを子供の頃からあたりまえのように享受してきた人たちだった。そして大人になり自分に身についた非常にきめ細かいサービス行為をサービス産業の末端労働としてではなく、自己表現として行ったのが、自営系カフェの労働だった。
 こうしたカフェのあり方は、機能性と表現の一体化という彼らのテーマとスムーズに結びつくだろう。実際宮本さんは、自分らしいカフェを目指す人たちにとっての手本ともいうべき店、那須のSHOZO CAFEのオーナーとミサワクラスの若者たちを引き合わせてもいる。
 そしてまちに開かれたアートについての話がさらに展開する中で出てきたのが、先述した小川監督の話だったのである。


●アーティスト・イン・レジデンスの視点から小川プロを視る

「まちの暮らしに入っていく機能性と表現の一体化というミサワクラスやアジアハウスの試みは、結果が出るのにとても時間がかかるものです。今まで山形で行ってきた経験から考えたことは、アートと地域の関係を深めるためには時間が必要だということでした。東京と違って山形はゆっくりとした時間が流れています。そのスローな時間に沿っていかなければならない。しかしそれをマイナス要因とせず僕らはプラスとして考えたい。経済状況の影響もあり、ひとつの企画に長いスパンでつき合うのが難しくなってきている時代だからこそ、そのことは大切です。そこで思い出すのが小川さんたちでした。彼らは、この山形に来て、カメラをまわすまでに数年かけているという。その時間をかけているということ、その方法の中に僕たちが学ぶべきものがあると思うのです」
 かつて小川プロは、闘争現場と生活現場を結びつける試みの一つとして、渦中の共同体に入り込む方法をとった。その共同体の要となる農作業を理解するために、農村に移住し共同体の想像力と結びつく形で作品をつくりあげた。この実践が地域に開かれたアート表現、共同体の時間に沿った表現行為として新たに捉え直されているのである。この解釈が小川プロをどうしても先述した60〜70年代的文化の文脈を通して見てしまう自分には新鮮だったのである。
 確かに小川プロが農村に住み込み農作業を自ら行い映画作品を作り上げたように、ミサワクラスの人々はまちに住み、映画祭期間中だけではあるが宿泊施設を営み、そこを使って彼らが考えるアート表現を行った。
 多分アジアハウスの人々は小川プロが強い決意でそうしたのとは違って、いくつかの流れが重なって考え出したアイデアを割合気軽に実行したのだと思う。
 ということもあり、スペースの意味を強く主張してはいない。そこで私は、ドキュメンタリー映画祭の宿泊施設として機能したアジアハウスの意味を、もう少し明確化してみたいと思う。


●アートフェスティバルの旅人が示すもの

 2000年代になってから、各地域で行われているアートフェスティバルが話題になるようになり、観客も多く集まるようになってきた。
 山形のドキュメンタリー映画祭に行ってみても、非常に若い参加者が多いということが印象的だった。関係者に聞くと「95年くらいからボランティアになるために来る人が増え、また最近になって若い人たちが非常に増えていることに驚いている」といっていた。増加の理由を聞くと「91年に開校された東北芸工大の学生の参加とそのネットワークの影響、近年各地の大学で映像系の学科が増え、その教師に過去映画祭に関係した人々がなっており、教え子を送り出しているのではないか」という答えが返ってきた。
 実際、若者たちとも話したりしたが、気になる映画を見にきたというマニア的な人はあまり多くなく、山形という地域に根づいた映画祭を体験しにきたという人たちが多かったようだった。
 今、各地域で行われているアートフェスティバルの観客が増えているとしたら、ある作品をぜひ見たいがためにそこに行くというよりは、地域文化の中に置かれたアート作品を地域の雰囲気とともに楽しみたいという人たちが多くなっているからだろう。また実際の増加数がそれほどの数ではなくとも、メディアでアートフェスティバルが意識的に取り上げられるのは、アートを含む様々なものを地域文化の文脈の中にいったん入れ込んで楽しむという流れが今、目立ってきているからだろう。
 これは資本主義経済の進展がある限界にまで達した社会の成員が、次なる時代の生き方として「コミュニティを大切にする生き方」を強く意識したことと深くつながっている現象だと思う。
 これから私たちはいやおうなくグローバルな状況の中で生きるが故にローカルを意識した暮らしを志向していくだろう。といっても前近代にあった地域に縛りつけられたローカルな暮らしではなく、常にグローバルなネットワークが同時に存在する、あるいは移動の可能性を常にもっているローカルな暮らしだ。
 そのような暮らしを中から、さまざまな物事をコミュニティの文脈で見ていく考えが一般的になり、そこからアートもコミュニティを意識して楽しむために、各地で行われるアートフェスティバルへと出かけていく人たち、旅するアート鑑賞者たちも多く出てくるに違いない。
 私が山形のアジアハウスで見たものは、そのような旅人が使う可能性をもった宿泊施設だった。そのように見えたのは、宮本さんと地域とアートの関係性について話したからだろう。またドキュメンタリー映画祭のための宿泊施設だったということも大きい。ドキュメンタリストは基本的に旅する人たちだ。それも、人や物事をコミュニティの文脈で捉えながら旅をする。その中の小川プロは長い年月をかけてコミュニティに溶け込み、農作業をコミュニティの文脈から捉えていった。
 またカフェ的空間性も、その見方に影響を与えていた。大きな資本を背景にしていない自営系カフェを私が評価しているのは、経済がもう進展しない世界での生き方をバブル崩壊以降、もっとも早くこの日本社会に自然な形で見せてくれたことだった。アジアハウスがカフェ的なスペース感覚をもっているアートフェスティバル用の宿泊施設であったことは、経済発展以降の定常化社会を旅するアート鑑賞者を想像できて、とても共感できたのである。


(1)『三里塚・辺田部落』についての1973年の小川監督の発言(『映画を穫る』(小川紳介著 筑摩書房より)。
(2)「山形R不動産と、小さな旅館の復活」
 http://www.tuad.ac.jp/adm/architecture/topics/011/