『gui』について

詩人の奥成達さんらがやっておられる同人誌『gui』73号が一昨日送られてきた。
けっこうな達人が揃っているのでいつも読み込んでしまう。


その中でも好きなのが吉田仁さんの連載小説「千駄ヶ谷」。
マガジンハウス、というよりは平凡出版の元編集者である吉田氏の若かりし頃の思い出なのだが、プログラムピクチャー的な味わいが抜群なのだ。70年代あたりの風俗を描き新劇女優や美人姉妹などが必ず登場するところ、吉田氏が住んでいた千駄ヶ谷のアパートがその舞台に必ずなるところが、プログラムピクチャー的なのか。今回も「私」は美しい女性と自分のアパートの部屋でキスができそうになるのだが、もうそこにはプログラムピクチャー的説話装置が働いていて、読者がぜったいキスはできないだろうと予想させるようになっており、案の定、それは成就できない。予想させ、その通りになってしまうことの楽しさ。
またプログラムピクチャーの主人公は、大衆が支持する正義感と非常識さがほどよくブレンドされているものだが、若かりし頃の吉田氏の性意識、ギャンブル意識は、その正義感と非常識さの混じり方が、まさに連続ものの主人公たりえている匙加減。これは絶対支持してしまう。


と、これを書いて思ったのだが、『gui』同人それぞれが書くものにはプログラムピクチャー的な味わいがあるのではないか。遠藤瓔子氏の日記に登場する元夫である塀の内側から登場した作家やミュージシャンは、必ずやまたクスリやその他いけないことに手を出すぞと思わせ、その通り、それも一般人の心情を揺るがすようなあでやかさで行ってしまうだろうし、奥成達氏の詩論における尋常でない引用の仕方(とにかく引き写してしまい、その量感によって自己のテクストにひび割れができる)は、プログラムピクチャーに毎回登場するコメディアンの過剰な技芸を思わせるし、四釜裕子氏の詩の言葉やレイアウトには、雑誌の中や同人の関係の中に置かれるテクスト設置位置の正確な計算がいつものように感じられ、それは連続ものに再三登場するのだが、決して物語には奉仕せず反対に演技論や出自を考えさせてしまう、とても不思議な俳優のようだ。


読者に1行手前で予想させ、次に来る1行ではその通りのことをしてくれる楽しさ。
雑誌を手にする読者に今回もやってくれるのかなと期待させ、ページを開けば、その通り見せてくれる技芸を目にする歓び。読者にとっては、それはそれ、うれしいことだが、はたしてこれが作家や詩人にとってよいことか悪いことかはわからない。


しかし考えてみれば、プログラムピクチャー的な楽しさを味わえる雑誌は少なくなった。それが同人誌で味わえる。不思議だ。まあ、本読みとして私は幸福なんだな。