自分のことを僕と呼ぶ女性について


静岡で起きた「母親毒殺未遂高一少女事件」の新聞記事を読んでいて気になることがあった。それはその少女が自分のblogで、自分のことを「僕」と書いていたということだった。


なぜ、そんなことにひっかかるのかといえば、私は、「自分のことを『僕』と呼ぶ女性」に対してしてしまったことを時々思い出すことがあるからだ。


1986年、私はその当時編集をしていた都市文化批評誌『HOLIC』(少年社)で、「美少年マンガと少女」という特集を企画した。
その少し前、私は『JUNE』(サン出版)の佐川俊彦編集長と出会う機会があり、佐川編集長が語る、今でいう「やおい愛好者」(当時はそのような言葉はなかった)である少女たちの生き方に「ひっかかった」のだ。


佐川編集長はこんなことを話した。
「前に雑誌でアンケートしたことがあるんですよ。『朝、目覚めたら、あなたは美少年になっていました。そうしたらあなたは何をしますか?」というアンケートなんです。
そうすると、読者からは、『女装して街に出ていい男を見つける』という答が圧倒的に多いんですね。
それって変ですよね。女のまんまでもう女装してんだから(笑)。普通に考えれば,男の子になれたら野球するとか、女の子を犯しちゃうとか、もっと過激なことをすることを考えますよ。でも女の子は、そうは考えないんですよね。女の子はやっぱりそこでも男の子をさがすんです。女の重さってありますね」


あるいは
「だから(マンガに出てくる)美少年といっても本当は男じゃないんです。美少年というぬいぐるみをかぶっている女の子なんです(笑)」


こうした話に私はひかれのだ。このように「女」を常に抱えつつ、それでもなお美少年というぬいぐるみをかぶろうとする少女たちのことをもっと考えたくて、美少年マンガの特集を組んだのだった。高取英に美少年マンガの名作を選んでもらいコメントを書いてもらったり、映画監督の今関あきよしがコレクションしている美少女写真を借りて雑誌に載せたり、斎藤次郎さんに「少年も少女も未熟なんかではなく、『すでにわれわれは完全である』と宣言すべきだ」といった原稿を書いてもらったりした。
(その後、問題を起こしてしまった今関あきよし監督が撮影した美少女写真の写真の素晴らしさは、また何かの機会に語りたいと思う)


当時、私がこの特集を組んだのは美少年マンガに対する興味ではなかったと思う。それに熱中する少女たちのあり方に「ひっかかった」のだ。興味をもつのではなく、なぜ「ひっかかった」と書くのか?
その答えとして、私はその特集で「美少年マンガと少女世界の構造」という文章を書いている。


そこで私は「自分のことを僕と呼ぶ女性」について書く。その女性とは森田童子のことだった。彼女について書くだけでなく、私は森田童子に原稿を依頼した。
原稿依頼といっても直接会うことはできず、事務所の人間に依頼の手紙を渡したのだった。その男性の感じが芸能界で働いている人の雰囲気とはやはりほど遠く、市民運動をしている感触の人だったことが記憶に残っている。


依頼の手紙の内容は「『ぼく』を使って、あなたはどれだけ自由になれたのか? そのことを書いてくれ」というものだった。1986年、彼女の活動はもう終息期を迎えていたと思う。そのことを知りつつ私は手紙を書いた。「あなたはどれだけ自由になれたのか?」には、読んで感じられるとおり悪意があった。さらにまた、送ってくれた原稿を、森田童子の原稿としてページを分けて載せるのではなく、私の書いた記事ページのコラムとして入れ込んだ。そして、その森田童子の文書を事例にして「僕を使う女性」と「美少年マンガに熱中する女性」は同じ心的構造をもった女性であるといってのけたのである。


今、それを悔いたり謝ったりしてももうどうにもならないことはよくわかっている。しかし、こうしてやってのけたことは、必ずなんらかの形で返ってきてるはずであり、その後の私の編集や文筆作業になんらかのいびつさを作らせているのだと思う。


1986年の私は書く。「ぼく」も「美少年」も何かを振り払う仕草によって書かれたものだと。何をふりはらっているのか。それはこの現実社会を生きなければいけない「わたし」である。


多分、私があんなことをしてしまったのは、近親憎悪なのだと思う。私が考える「僕を使う女性」や「美少年マンガに熱中する女性」と同じように、自分という命を現実社会を生きなければいけない「わたし」に設定することに、当時の私は恐怖していたのだ。


その恐怖ゆえに、一人称の設定にこだわっているのであろう森田童子にいらだっていたのだと思う。彼女を分析することによって、その恐怖から逃れようとしたのだ。


そのことを私は「母親毒殺未遂高一少女事件」の新聞記事を読んでいて思い出したのだった。そして久しぶりに昔の雑誌を本棚の奥からとりだしてみた。


森田童子の文章に、1986年の私は「『ぼく』たちの歴史」というタイトルを付けている。
彼女のその短い文章、自分がやったことの後味の悪さもあり、ずっと読んでいなかったその文章を読んで少し驚いた。このような文章だったのだろうか?


1986年の森田童子は書く。
「僕は暗い夜の空気をとおして、村人たちの襲撃を見はり、そして凍えたこぶしには石のかたまりをつかんで闘いにそなえていた」
大江健三郎の『芋むしり仔撃ち』を彼女は引き写す。
「僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みにむかって駈けこんだ」


1986年の森田童子は書く。
「芋むしり仔撃ちの『ぼく』から18年後にスピルバーグの映画『未知との遭遇』で、少年の『ぼく』は台所のドアの向こうに巨大な光を見て、その恐怖に似た光の中に最も親愛なる『ともだち』をみた」


しかし「9年後、スペースシャトルから少年少女に夢のテレビ授業をするはずだったマコーリフ先生が乗った宇宙船が爆発した。この惨事は、アメリカ政府がVENUS(金星)を以後、マコーリフと少年少女の『ぼく』に呼ばせることで、美しい寓話として完結してしまう」


1986年の私は1986年の森田童子に「『ぼく』を使って、あなたはどれだけ自由になれたのか?」と質問をしていた。


彼女は書いていた。
「つねに歴史は美しく語られてきた。歴史に語られることのなかった小さな『ぼく』たちの歴史は、いま『ぼく』という音声にもならない言葉の前で口ごもってしまっている」


「じっとひそんでいる『ぼく』の美少年はもう、本棚の上でほこりにまみれたまま忘れ去られてしまうのであろうか」


最後に彼女は彼女自身のレコードから言葉を書き写す。
「淋しいページの音をめくり、長い思想のむなしさを読む、ぼくはどこまでも、ぼくであろうとし、ぼくがぼくであろうとし、ぼくはどこまでも、ぼくであろうとし、ぼくがぼくであろうとし、ぼくがぼくであろうとし、やがて、ぼくは、モデルガン改造に熱中していた。もうすぐ憎愛に変わるだろうぼくの孤独な情念は、壁をつき通す一発の弾丸になるはずだった」(LPウルフボーイより)


……強い強い文章だった。
19年前の弾丸に僕は撃たれて倒れるか?


あれだけ、この社会で生きることを恐れていたのに、こうして生きてこられたのがとても不思議だという感触の中にいる。