機内誌/フランス装/名作

JALの機内誌に原稿を書いています。この6月、JALの飛行機に乗ったなら『SKYWARD』を見て下さい。「沖縄 気持のよい琉球の家を訪ねて」という記事です。沖縄の住宅を巡る旅をして書いたものです。北部の集落、備瀬の家やフクギの並木、本部町の森の中の家、宜野湾のコンクリートブロック住宅、南城市知念、久高島を望む家などなど。ポイントは海ががーんと見れる視覚系建築をあえて避けたとこ。何かに守られている家を訪ねたところです。
写真は福岡耕造さん。最近、リリー・フランキー氏と『ビートルズへの旅』(新潮社)を出した人。
福岡さんとは今月から某PR誌で連載の仕事に入ります。


山口信博さんにデザインをお願いしていた本、できあがりました。
70代の女性の私家本です。
タイトル『美濃、いつしか故郷となりて』
著者 高梨浩子
四六判で、本文212ページ1C  口絵14ページ4C 
製本形式 フランス装/スリーブ入り。美篶堂式による手作業での4ページ1台製本
遊び紙として、手漉きスカシ入り美濃紙いり
表紙の平と背のタイトル、スリーブの平は、活版 スミ1色
部数:200部
編集した自分がいうのもなんですが、とても素敵な本になりました。


某文庫シリーズの広告のための文章を書いています。すごい名作ばかりを読み続け、解説・あらすじを書く仕事。ビートルズを聞きながら仕事をしていました。名作には名作を。


友人に事情があり、その友人との共同生活に入りました。ついにこういう時代になったんだ、と思っています。まあ、料理がうまい人なので、ここ2、3日とっても素敵な食事ばかりしているし、台所もきれいにしてくれるし、夜は酒飲みながら話せるし……楽しいんだわ。


6月11日、朝日新聞朝刊の文化欄に、映画「二十四時間の情事」に出演した女優エマニュエル・リバが広島での撮影時に、自分のカメラで撮った当時の写真が発見されたという記事が載っていた。
リコーフレックスの六六判のカメラで撮ったと書かれている。全部で8枚の写真が掲載されているのだが、とても素敵な写真だ。
1958年のヒロシマの町並みが写っている。
私はあの都市のバラックにとても興味をもっており、かつてあったスラムの写真が載っている雑誌とかもっている。ここにもバラックが撮影されている。さらに「どーむ」という喫茶店の建物(何故か隣の記事の磯崎新をどこか感じさせる!)そしてヒロシマの夜の映画館前に立つアラン・レネの魅力的なスナップ。12月に東京・銀座のニコンサロンで写真展が開催されるようだ。
久しぶりのよいニュースだったな。


そうそう、例の書評集・上巻、最後の工程が近づいてきましたよ。がんばらねば。(関係者の方々、遅れていてすみません)

楢山節考の仮設バー/東京サイハテ観光千駄木ほうろう

行ってみたかったバーがある。「ファイブパーセントブレーク」という店。今村昌平監督の作品『楢山節考』の撮影時に、美術担当の稲垣尚夫氏が馬小屋を改造して作った。「200%働いて、5%遊ぶ」という意味の撮影スタッフと俳優達のための仮設酒場だ。
映画の撮影隊・馬小屋・仮設バーの3大話。それでグッときてしまうではないか。
実は撮影隊や軍隊の食事用施設には昔から興味をもっていて、戦争ものとか大嫌いなのだが、兵士たちがいい加減ではなくて、それなりにうまそうな食事をしているのが映され且つ調理用の施設とかが見えると、なんかうれしくなってしまうんだ。
この稲垣氏の話が掲載されているのが、劇団1980が行う「映画監督今村昌平 追想公演『ええじゃないか』」(5/7〜5/11 紀伊国屋サザンシアター)のパンフレット。知り合いが編集しているのだけど、とてもおもしろい冊子になっている。小沢昭一河野洋平(映画『ええじゃないか』に出演しているのだね)、マーティン・スコセッシキム・ギドクなどの話が掲載されている。


最近行って楽しく時間を過ごせ、且つうまかった店についてメモしておこう。京都・河原町のスアン。ベトナム・フレンチの店。それから東京・目黒区中町のボブ東京。くつろげる和食のお店だった。


千駄木古書店、「古書ほうろう」で、5月17日、出版記念幻灯トークショー『東京サイハテ観光千駄木ほうろう』というイベントが行われます。
交通新聞社から出た『東京サイハテ紀行』(文=中野純、写真=中里和人)に関するスライドトークショー
一部と二部に構成が分かれているのですが、二部のゲストとして、私、ワタナベ登場いたします。
2月に行った東京サイハテ観光房総ツアーについて、中野さんや中里さんと話をします。よかったらいらして下さい、そして気が向いたら声をかけて下さい。詳細は以下で。
http://www.yanesen.net/horo/info/1659

人間通/海岸ビルヂング


沖縄取材に同行した女性編集者はなかなか興味深い人だった。沖縄の夜、写真家やコーディネーターらとあのソーキそばがうまい、この泡盛はどうしたこうしたのといいながら酒をただただ飲んでいるその隙に飲み屋のママとカウンターで何やら話している。次の日聞くと、店のママが最近子供を産んだ話を聞いていたという。シングルマザー。出産数週間前まで働いており、ほんとうはぎりぎりまで働くはずだったが店の客たちに止められたという。その常連客の話がどこかおかしい。その子は自分の子ではないかとそれぞれ思っており、責任をもって店に通っている節がある(このあたりは私の妄想か)。そういえば、「篠ひろ子そっくりのママがいる」といってこの店に誘ってくれたコーディネーターも責任を感じている一人ではないか、などと冗談を移動の車でいってみんなで笑った。まったく篠ひろ子に似ていなかったが、沖縄の夜は楽しい夜だった。しかし、この編集者、私が家の主とインタビューをしていると部屋の隅でその奥さんと話しているということが数度あった。後で聞くと、実は最近病気になり、その家族がたいへんだったとかいった話を主婦から聞きだしている。「男は格好つけたがるから」と笑いながら、そんな話をする。
帰京して、まあなんとか原稿を書いて見せたら、テーマがどうとかは言わず「この結末はワタナベさんらしいから、いいか」とかいう。人間通なのだな。
それでこの仕事は9割終えた。


某日、某新聞社のための記事を2、3本速攻で書いて羽田空港へ。所用で神戸へ。
用事を済ませ三宮から海へ向って歩く。海岸通にある大正期あたりに建った建物。海岸ビルヂングへ。
関西の女性誌などにはよく出ている、その建物にあるカフェ「アリアンス・グラフィック」に行く。昼飯食べました。「フランス人に教えてもらったカレー」。
女子がいっぱい。昔は男たちの吹きさらしの路地の町だったらしいが、今はおしゃれな女子の世界。そういえば、東京渋谷の精神構造がおもしろい店「なぎ食堂」も女子がいっぱいだった。男は俺だけという店で一人で食事していることが多いな、この頃。
(渋谷駅近くのビルに妙なカフェを最近発見している。渋谷は実は今急速に変化している)
そして神戸の海岸ビルヂングである。やっぱりよいのだ。見学をしていたら、象設計集団の神戸アトリエから発展した「いるか設計集団」の事務所があった。


少し歩くと「戦没した船と海員の資料館」という建物。第二次世界大戦で徴用された商船で撃沈されたもの、そこで亡くなった人を記憶しておくための資料館。戦没した船のプレートが壁に貼られている。商船関連の資料の本。
とてもよい仕事だと思う。感動する。
それからこの資料館が作っているサイトも地味だけど、素晴らしい。
http://www.jsu.or.jp/siryo/
海域図が出ている。そこに船の名前が書いてある。クリックすると船の写真とどのようなことで沈没したのか、何人死亡したのかが書かれたテクスト。
クリックしていくと何かイメージが広がっていく。最近、亡くなった方の放置されたままのblogを読むことが多くなったせいか、blogが船のように思える。ネットの世界が海として見えてくる。今この一瞬のイメージは大きく自分を支配するだろう。
戦没した商船の記憶とインターネットには親和性があるようだ。発見。世界に平和を。


石山修武さんと中里和人さんの新刊(4月下旬予定)となる『セルフビルド』(交通新聞社)の色稿を、ちょっとした事情で見せてもらった。なかなかの原稿と写真だ。こういう纏め方になるのか。装幀は祖父江慎さん。製本される前なので実際の出来はわからないが、いたずら者・祖父江さんのアイデア通りの造りの本となったら、これは現代を支配する技術への痛烈なパロディーとなるはず。うまく実現することを願っている。


ある音楽事務所の社長と仕事をしている。文章を書いたり、あるプロジェクトを動かしていく仕事なのだが、その人が自分をミュージシャンのように扱ってくれていることに今日気付いた。


旅だ。移動している。もっと動こう。家にいる時もホテルにぽつんといる時も同じ気持だ。そろそろ道具を揃えていこうか。


写真は沖縄の街角、海岸ビルヂング、最近前をよく通るプラダ青山店のビル(表参道)。

「東京サイハテ観光」房総ツアー


このblogでいっていたマジカルミステリーナイトマイクロバスツアーの正式名称は、「『東京サイハテ観光』房総ツアー」。その旅に16〜17日に行ってまいりました。交通新聞社の『東京サイハテ観光』(中野純=文、中里和人=写真)の刊行記念で行われたものです。
この本は、雑誌『散歩の達人』に連載されていた「旧道部」という記事を基本に編集されている。当初は、旧い道を歩き名景発見を目論むものだったらしいが、自分たちの旅が「サイハテ感」の景色を求めているのだということに気づき、旅の記録の再編集が行われたようだ。


16日朝、20数名がマイクロバスに乗り込み出発しました。東京近辺のサイハテ感を発見していく視覚武道団体「旧道部」の受け入れ体制のもと旅は行われた。
具体的には房総地域の「手掘りトンネル」見ることを中心にしたツアーでした。
畑に行くために農道を作るような感覚で掘っていたのだろう農道トンネルから、自分の家のためだけに作ってしまったマイトンネルまで、魅力的な掘リモノをいくつか見てきた。その他、電柱桟橋歩き、月夜に歩くナイトハイク、勝浦の朝市体験や、つげ義春ねじ式』の女医さん手術現場風景通過などなど、盛りだくさんの楽しい旅でした。
民宿の食事もおいしかったし、酒を呑んでみんなと語りあいました。今、てぬぐいでお世話になっている林静一さんの奥様もちょうどこられていて、楽しく話をした。


幸福は目的地などにはなく、道の途中にあることは誰もがわかっていることだけど、何故か人は道に立ちとまることもできず通りすぎてしまう。道路には、やはり方向性の力学が発生しているから。
私たちは道中なんとか立ち止まるためにカメラをぶらさげ、道端に咲く野の花に注目したりする。しかし、道をせわしなく行き来する日々を送る者にはそれも難しい。そこで求められるのが道楽者という存在だ。
中野純中里和人が提示してくれた手掘りトンネルという対象は、「手作り」「闇」という両者それぞれの得意技を通してつかんでみせた「道の途中の幸福」。
トンネルという通過空間を目的にしてしまう旅は、まさに道楽の王道であった。


この旅については、詳しく書きたいが、とりあえず写真を早めにアップしておきます。

美濃/京都/風にさらされて

いくつかの用事のために、美濃と京都に行ってきました。
美濃では、ある民家を撮影し、美濃紙を購入。
京都の用事のひとつが、いくつかのアイテムのための書店営業。京都の恵文社一乗寺店へ。魅力的な空間。しかし、圧倒的に女子の世界でした。


ちょっとだけ一乗寺の街を散歩。すると、和菓子屋前、男子学生たちの背中にただならぬ気配が。いきりたつように、あるいは仁王立ちで、5,6人の男子たちがじっと店頭の和菓子を見つめていた。とびきりの甘さなのか。ふと横を見ると、向こうの方から男子学生が一人、両手に何かを持って歩いてくる。ジャージ姿なのでダンベルでも持ってウォーキングかと思ったら、ビールの空き瓶だった。1本ずつ右と左に持ち黙々と歩いてくる。「ビールが飲みたい、お金が足りない分はこの空き瓶で」。わかりやすいコンセプトだ。和菓子屋で静かに興奮している男子学生たちの後ろを、黙々と通り過ぎていくビール瓶男。「男子学生たちの世界」を、わかりやすく見ることができた一乗寺でした。
そういえば、昨日読み終わった浦沢直樹和久井光司の『ディランを語ろう』(小学館)にも、ロックが男子学生のものだった頃の語りの質感があった。
硬い興奮、とてもシンプルな思想、危険極まりない耽溺。そうしたことを、ほんとに少数しかいない「わかってくれる友達」に語るために、男の子が情報をどう整理し料理していたのかが思い出せる対談。


流れで、ロック系の書籍の話を少し。
blues interactionsから3月に『BIBAを作った女』が出版される。60〜70年代人気のブティックだったBIBA(ロンドン)のオーナーのバーバラ・フラニッキの自伝。私は子供の頃、ラジオから流れるグラムロックを聞きながら、BIBAの服を着ている女の子の写真を眺めたりするのが好きだったので、これは楽しみ。それから同社では3月に『ブラック・パンサー  エモリー・ダグラスの革命アート』が出版される。過激な黒人解放運動を担ったブラックパンサー党の広報担当イラストレーター/デザイナー、エモリー・ダグラスの作品集。敵としての白人を、抑圧をはねのける方法としての暴力を、当時の文化状況の中で、都市の黒人たちがどう描いていたのか興味あり。期待しています。


河原町のBONBON Cafe。鴨川べりでヴァンショーを飲みながら耳を澄ます。しかし、男子学生の語りを、もう聞こうとは思わないし、自分自身語ることもないでしょう。
京都では少しの時間だけど遊んできました。
風にさらされて、野宿者といっしょになって、ヒンシュクをかって、ばかみたいに。


昨日は、編集/ライターの河上進さんと、入谷の「なってるハウス」で落ち合った。
OKIDOKIのライブを見るためである。
多田葉子(alto sax,pianica,etc)
臼井康浩(guitar)
関島岳郎(tuba,recorder,etc)
即興演奏を行うグループである。
よい演奏であった。楽しめた。


店を出て入谷から鴬谷まで歩く。その間、河上さんが音楽について短い感想をいう。一緒にいくつかバンドを見たことがあるが、いつもその後の彼の発言に、はっとする。音を微細に聞き分けている。そして言葉に勢いがある。かなり、気を入れて聞いてるんだな、とその度に思う。


鴬谷駅前の飲み屋に入って話。今現在、二人の共通関心事項は、中里和人さんの動向であろうか。中里さん関連の「マジカル・ミステリー・ナイト・マイクロバスツアー」について(この旅の呼び名は、渡邉が勝手につけているものです)。
写真家の流れで、私がネットで見つけた気になるロシアの写真家の話をする。プリントアウトした作品を、河上さんに見せる。
(以上、1月15日の記録はこれまでにして、このblogは、写真家紹介のテクスト、私が創作した小品へと移っていく)


■ピヨトル・ロヴィギン(Pyotr Lovigin)という名の写真家である。
All Tomorrow’s Girlsというブログで教えてもらったはず。

この写真家のサイトに行った。
http://lovigin.livejournal.com/ 
ロシア語なので、シュヴァンクマイエル展でお世話になった美術研究者ロディ・オンに教えを請うた。
ピヨトル・ロヴィギンは1981年生まれ。現在、ヤロスラーブリ大学で建築を教えながら写真を撮影している。
「このロヴィギンの芸術の特性を『コスタリカ・ジャマイカ』のシリーズの写真を見るとよく感じることができる。
コスタリカ、ジャマイカは外部にあり、地球の上どこかあるのでではなくて、魔法的な世界にある国と見られている。日常的な住み方と違って、完全な自由さがあって、想像力を生かせる天国に近い地方だ。ロヴィギンはこの国の写真日記を構成するだけではなくて、ヤロスラーブリの自分の町でもコスタリカ、ジャマイカの視覚文化と性格を生み出そうとしている。ぜんぜん似ていないロシアとコスタリカ、ジャマイカのぶつかり合いによってパラドクス的な印象、夢のような効果、超現実的なイメージあるいは幻覚に近いエフェクトが行われている」
ヤロスラーブリは、モスクワよりもっと北にある古都。そこへ行って、ピヨトル・ロヴィギンと話がしてみたい。彼のいうことが、私にはとてもよくわかるのではないだろうか。



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「東京人としてのスプーン曲げ少年」


足が地についていないせいか、自動ドアにはよく挟まれていた。
そんな自分だからつけこまれたのか、あの頃、写真をばらまくぞと脅されていた。


カメラのシャッターが落ちるようにドアに挟まれる。その瞬間、ストライプのスーツにネクタイそして長髪の痩せた私が「イテ〜」というと、どの会社の受付の娘も、ころげるように笑った。声をかけるのは簡単だった。名刺に印刷された週刊誌の名前も肩書きも効いていた。


フランス語のメニューも仏文出身だったので読めた。下着の話題にも応じられた。テーブルの横を通り過ぎる伊丹十三にも挨拶をした。青山育ちで小さな頃からロックコンサートに行っていた。様々なジョークに対する彼女たちの反応。女性特有の捩じれた躊躇。しかし私の有無をもいわせぬホテルのドアへの直進。ドアを開く、素早く閉める。様々な女たちの様々な形をした女のからだ。閉じられたそれに指を少しずつ入れていくのが好みだった。強く挟まれ驚いた顔をすると、女はやはり笑うのだった。


ちょうどあの日は、会社の写真スタジオでの撮影に立ち会っていた。
撮影する前、少年はカメラマンに突然「念写を見せる」といいだした。大人たちに囲まれて、借りたポラロイドカメラを額に押し当て、少年は険しい形相で力を込めシャッターを押した。
しばらく経って画面に出てきたのは、奇妙な角度から撮られたモノクロの東京タワーだった。すごい空中への浮かび上がり方だ。
しかし混乱してはいけないと、カメラマンに目配せした。


暑い夏の午後だった。銀行で給料2ヶ月分の金を下ろし、それをもって西日暮里の喫茶店へ行った。ストライプの壁紙をバックに葬儀屋のような男が待っていた。
金を渡し引き取った封筒に入ったネガの中に確かに私はいた。
白黒反転の世界で私は餓鬼だ。口を白くあけ叫び罵り哭き、阿鼻叫喚の地獄の中にいた。
外に出ると季節はなく、アスファルトは蜘蛛の巣の線で干涸びていた。


編集部に戻ってみると机の上には焼かれた密着写真があがっていた。手に取ろうとすると、太い声で局長に呼ばれ九州に誰か行かせてくれといわれる。水俣病の偽患者がいるという。記事を作れという命令だった。返事もせず自分のデスクに戻り、密着写真をルーペでチェックしていく。


小さな白黒連続画面の中、少年は、スタジオの床に膝を着いた状態で写っている。ずっと彼はそのままのポーズでいる。カメラマンの助手のシルエットがスプーンを渡す。少年がスプーンを握る。それからスプーンを凝視する。しばらくその姿が続いた。突然、空に向かって声を発するように大きな口をあける。その次のコマだ。少年がスプーンを床に叩きつけている。決定的瞬間だ! 思わず声を出したのか、皆がデスクのまわりに集まってくる。局長の太い腕が密着写真を奪っていこうとする。それを阻止しようと揉み合っていると、机の上に積まれた書類が雪崩のように崩れていき、あのネガの入った封筒とともに床に散らばっていった。 


黒白の市松模様の床に這いずって書類を整理していると、先の尖ったハイヒールが見えた。あの女だ。見下ろしている。そう、私の妻は役員の娘であり、私はたくさんの女と関係し、それがもとで脅されてもいる。黒いストッキングに包まれた脚。あざ笑うがいい。


長髪の私は顔を上げない。「編集長、印刷機を止めるという電話が」という冷たい女の声が降ってくる。立ち上がり、女の顔も見ずに局長のところへ走る。記事の差し止めだ。中国人女性歌手のスキャンダル問題。しかし、それには電力会社の原発の亀裂一本が絡んでいる。
グラビア最終1ページ、世界の名画を紹介する美術記事を担当しているプロダクションの社長に連絡をしなければならない。こういう日のために、若い読者が軽蔑しきっているあの「世界の名画の旅」はある。デスクの書類の山から電話を探し出し連絡をすると、嘘のようにすぐプロダクション社長がやってきた。入道のような恰幅のいい男の入場。誰もがこいつの指示に従う白黒逆転の長い夜が始まるのだ。


明け方直前の午前4時。額に大きな瘤のある入道が、相手方の芸能プロダクションの社長と電話している。
歌手の話など一言も出ない、しかし話は際限なく広がっており、局長も私も誘拐された子供の家族のように、その折衝を聞いているしかない。ふと気がつけば局長が例の密着写真をもっている。奪いかえそうとすると、ラグビー部出身の局長が抵抗し、応接セットのソファで揉み合う。「君達、何をやっているんだ」と入道がいう。その隙に写真を奪い、窓際まで逃げた。写真をもう一度見ていく。後ろで入道の声がする。
「大日本の工場、動きだすそうだ」「条件は?」「先週の記事の技師の名前」
「それから責任者の交代」
太陽が昇ってきた。


少年は、大地に膝をつき遠くを見ている人として登場する。ずっと彼は遠くを見続けている。
しばらくして、スプーンを手にとり握る。ふと手を下に向ける。
突然、大空に声を発し、自分が立っている地平に思いきりそのスプーンを叩きつけた。亀裂が1本、地平線の向こうまで走っていった。


役員の娘であった顔色の悪い妻は、数年振りに見るその封筒をバカラのグラスの横にそっと置き、ため息をついた。父親の葬式の夜だったので喪服だった。その前でうなだれている私も黒の礼服だった。痩せていて、長髪で。


その後、妻は妊娠した。臨月が近づくにつれ、頬に赤みがさしてくる。
男の子が生まれた。のんびりとした子供だった。鉛筆デッサンに淡い絵の具が塗られていくような日々だった。


子供が小学校に入学した。父親である私に、最初の時間割りを、紙を開いて見せてくれた。
小さな白い紙に印刷された、黒い縦線と横線。
のっぺらぼうの幼児の時間に亀裂を入れられたのだ。
静かな日本人のつつましい割礼としての時間割。
横に走った線に並べられた曜日と縦線に並べられた時間。黒い縦線と横線で作られた小さな升に几帳面に印刷された科目。
小さな紙の上の小さな時間割。しかし、羽化した蝉が最初は透明だが時間がたつにつれ色を濃くしていくように、この小さな図面が人が立つべき地面になるのだ。私は子供を抱き締めて、「父さんも一年生のつもりで勉強するよ」といった。


webマガジンをまかされていた。マンションの前に立つのはいつも深夜だった。もう地に足がついたかどうかもわからない。いつでも暗証番号を覚えていなければならない。深夜、いつも私は数字を間違えて。どんなに地団駄踏んでも、この自動ドアは開かない。


そして透明なドアの向こうの空間。
数年もたてば、マンションの部屋で、男の子は父親の部屋から盗んできた古い週刊誌のグラビア写真を見ながら自慰をするだろう。奇妙な姿勢で。その部屋の窓から奇妙な角度で見える、東京タワー。

赤毛のCody


ヴァン・モリソンがいかに不機嫌な態度で唄い、且つ感動的なステージを作るかを教えてくれたduke377さんに、感謝を込めて、以下のテクストを贈る。
http://d.hatena.ne.jp/duke377/


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赤毛のCody』


Mississippiで起きたチェンソーを使った惨殺事件、Louisianaでの3組のカップルの失踪、TexasでのUFO信奉者たちの集団自殺……。
ここらで読む新聞は、まるでB級ホラー映画じゃないか。従業員の前ではせせら笑っていた俺だったが、会社からの帰り、ハイウエーを出てしばらく走ったところで、アリゲーターがうようよ潜んでいるにちがいない沼地に出てしまい、その大がかりな闇に震えが止まらなくなっていた。
墨田区東駒形生まれの俺が、Louisiana州Natchitochesでいったい何をしているのか。
 

もう20年も前、会社に入ってすぐに気づいたのは、「赤毛クラブ」に入ってしまったということだった。
子供の頃は病弱だったので、祖母が買い与えてくれた本をよく読んでいた。
シャーロック・ホームズの小説に出てくる会社「赤毛クラブ」。赤毛の質屋の主人は、突然の勧誘にのって赤い髪の人間だけが集まる会社の事務を始める。無意味な仕事だったが給料はよかったので、彼はその仕事を続けた。
それは仕掛けられた会社。赤毛の男が仕事に出ている隙に、犯人たちは質屋の地下室でトンネルを掘っていた。
トンネルの闇の先には、質屋の隣の銀行の金庫があった。


大学出たての俺も、こうして自動車部品に関する事務仕事をしているうちに掘り崩されていると思っていた。
辛抱した。闇を抜ければ、年寄りに育てられた自分とは違う男が立っているはずだった。


アメリカに飛ばされる前は、福岡のはずれの工場だった。
その近く、かつての炭坑町のバーで、俺は髪を染めた女と知り合い、しばらく一緒に暮らした。
ある日、営業の合間に博多の映画館でホラー映画を見てきたと話すと、女はあきれたような顔をしてこういった。
「映画やビデオで恐ろしいこと見る人の気持がわからん。やっぱり、この町の人間じゃないっちゃね。あたしにとって恐ろしことはいつでも自分が立っとう地面の真下にあるとよ」
そしてハイヒールで床を叩いた。その音は確かに、町の地下を走る無数の坑道があることを示していた。
帰ってこない女の祖父が何十人もの仲間と潜む闇。
 

Mississippi州Mageeからやってきた工場長補佐Cody Walker。あいつは本物の赤毛野郎。
Codyが好きなJim Croceの唄を聞きながら、ぶきっちょなあいつと仕事をしていると、ばあちゃん、人が働くことの切なさに涙が滲むこともあるんだよ。


だが、明日、俺はCodyの首を切る。奴らはすぐにピケをはる。遠巻きにしているCodyの仲間の一人に、俺は唾を吐きかけられるだろう。
ラジオのスイッチをひねると車中の闇に鳴り響くDELTA BLUES!
カンテラを下げた真っ黒な坑夫が叫ぶように唄う唄。


オー、コノ闇ノ、オーコノ闇ノ天井ノ上ニハ
エミィーノスカートノ中
愛シイ愛シイ暗闇ガマタ待ッテルンダゼ〜オ〜マンコ〜


畜生、いったい本社の人間は、どこまで掘り進もうというのか?
明日、俺は赤毛のCodyの首を切るんだ。



(写真は、なんとなくRalph Mactellの『STREETS OF LONDON」の中ジャケの一部を引用いたしました。俺、ホームランの福田さんに、このレコードを10数年借り続けています)