片岡義男の『白い指先の小説』について

片岡はその登場人物を「美人」という、現代の小説では少々古風な感じに聞こえる言葉を直接的に使って表現する数少ない作家だ。
片岡の小説を読んできて、何故、そのヒロインは「美人」なのか? といつも思ってきたが、ここではあっさりと小説が始まるその時に、その答えを教えてくれる。
短編集『白い指先の小説』(毎日新聞社)の最初の小説『本を買いにいった』は、「実用的な美人」ということについて語っている会話から始まる。
ヒロインが登場する第一幕が上がる前、幕前の寸劇として主人公の女性がアルバイトで務めていた編集部の人間たちの雑談が始まるのだ。勿論、その人はいない。
「実用的な美人」は、「事態ぜんたいをいいかたちで前へ進めていく」人として語られる。
そして、この小説のヒロインは、美人だが、「目立たない人」、「風景に溶け込みやすい」とされ、彼女は「実務の実行のなかに私情がはいってこない」人でもあることが話されていく。
そして会話はふと終る。
「目立つということは、私情の最たるあらわれかもしれない、とは言える」
「しかし、私情のない人はいないですからね」
これを終わりの会話として、次から、作者は新たなパラグラフを綴る。
幕が上がった。ヒロイン、裕美子が登場する。


つまり片岡にとって、「美人」とは、事態全体をよいかたちで前へ進めていく人だ。
それが意図的に小説の中で使用され、実務の実行が行われる(この使用方法には、片岡が多く見てきた日本映画の黄金時代のヒロインの存在感が大きい。映画鑑賞体験と小説製作との関係については、また違うテクストで語っていきたい)。
ここでいう「実務の実行」とは、言葉による小説の構築のことだ。また、その構築のスピードをゆるませる「私情」は、言葉それぞれが関係する世界の具体性からもたらされる感情のことだろう。言葉はとても抽象的になれるが、世界の具体性からは切り離せない。その性質を上手に使って読者の心を揺さぶるのが小説家の仕事だ。
片岡は、その仕事を行う技術のひとつとして「美人」という言葉を使う。
「美人」という言葉を使うことによって、小説のヒロインは抽象的になり、小説という事態を前へ前と進めることができる。「美人」という言葉を使わず、それを細かく描写していくことになったら、それは実際の世界にいる美しい人、具体性に関係してしまう。その実際の女性がもっている不自由さに捕われることを回避するためにも、「美人」という言葉が使われる。


登場人物の抽象性は、片岡の小説だけにいえる事柄ではない。ほとんどの小説の中の魅力的なヒロイン、いや登場人物が魅力的であるということは、それはすべて、ほどよく抽象的に書かれているからだ。
「ほどよく抽象的に書かれている」とは、どういうことなのかといえば、目立たなく、風景に溶け込んでいるということだろう。作者が表現したい抽象性をとても大切にして動き、しかし目立たせずに(目立ってしまえば、それは批評文になってしまうから)、物語というものに溶け込むことが、登場人物、特にヒロインやヒーローの大きな役目なのであり、それに成功した登場人物だけが魅力的なのだ。


『本を買いにいった』の裕美子は、短編小説を2本だけ雑誌に発表した物書きだ。その2本目の短編が発表された雑誌を見ながら、彼女は「自分は作家になる」という決断をする。それから部屋の整理が始まる。資料の整理、いらなくなった本を古本屋に売る過程がたんたんと描写されていく。日常生活のそれも孤独な人間の日常生活の細部を描写していくことは、片岡が綴る物語の大きな特徴だ。ヒロインは実に合理的に、そしてストイックにそれを実行する。主人公が、日常生活を合理的にストイックに実行することを好んで書く作家に、村上春樹がいる。彼の主人公のこうした行為は、終わりがない日常だからこそ、精神的に崩壊しないようにストイックに生きようとするモラルが感じられるが、片岡の主人公のそれにはモラルはない。終わりがない日常というよりは、この世界は無常なのだと片岡は思っているはずだ。世界は、ヒロインのように、事態全体を前へ前へと進めていく。かなりスピーディーに。多分、片岡の世界観は、このようなものだ。片岡の小説は主人公たちは、その事態の進行にまけないように、かなりスピーディーに、日常生活の細々を実行していく。大切なことは無常の世界の絶え間ない波に、どう乗っていくかだ。しかし、世界は自然だけでできているのではなく、私情や抽象性によって編み込まれた社会というものが存在するので、その実行に於いて思わぬことが起こる。

さてこれから、その事態を語っていこうと思うのだけれど、この小説をこれから読もうと思っている人、あるいは小説をストーリーの流れだけに乗って楽しみたい人には、この文章はここで読むのはストップしていただきたい。読んでいただいてから、この後の部分はご高覧下さい。


よいでしょうか。では再開します。
小説を書くという仕事の手のうちを見せながら小説を構成していく。そのことを実行し、成功しているこの短編集の最初の小説『本を買いにいった』では、「美人」のヒロインが日本近代文学全集を買いにいくという行為が大切なモチーフになっている。日常生活を合理的にてきぱきとこなしながら、その流れの中で、裕美子は古本屋にいって、全13巻の日本近代文学全集の中で手に入れることができなかった第11巻を購入する。
家に戻り、本を開くと、「その本の左側のページは、そのまんなかで長方形に切り抜かれて空洞であり、その空洞の深みのなかに何枚もの一万円札が詰めてあった」のだ。
数えてみれば300万円だった。裕美子はその札束を薄気味の悪いものと感じる。
貨幣という最も抽象的なものが札束という具体物として、小説を束ねた全集に切り抜かれた空洞の中に現れたわけだ。
事態のスムーズな進行を阻むような抽象性であり具体性が突如出現したわけだ。
片岡義男の小説では、あまりない事態である。しかし、小説家の仕事を見せていくことがテーマのこの短編集だからこそ、片岡は特別に非常に特別なこととして、その事態を出現させた。
日本近代文学全集に作られた穴は、小説という完結された世界に切り抜かれた穴であり、そこからは抽象性そのもの、具体性そのものの外部が出現しているのである。


裕美子はどう行動するのか。抽象性と私情のバランスを上手に生きながら、事態を前へと進める使命をもったヒロインは、何をするのか。古書店にもどってこのことを報告もしなければ警察にも通報しない。考えたのは「一冊だけ分売したあとの十二冊をどうすべきか、ということだった。買うほかない。買わなければいけない。買うことこそ正しい」と思い、次の日、残りの十二冊を買うのだ。
さらに、裕美子は神保町に行き、切り抜かれていることによって読めなかった第11巻を買い、300万の札束は例の本に戻し自宅の本棚に全部で14冊になった全集を並べるところで、この小説は終る。


ここで片岡が小説として成立させながら、いいたいことは何か。小説は、抽象性や具体性それ自体を扱えないということを隠蔽しているということだろう。世界は抽象性も具体性も含みつつ、刻々と進展している無常の世界だが、小説はそれができない。抽象性や具体性そのものを扱ってしまえば、小説という事態の進行は停まってしまい、小説は成立しないということをいっているのだと思う。


片岡の小説の魅力は、事物や人物を具体的に描写しつつ、そのことによって具体性を隠蔽しているところを読者に感じさせるところだ。彼が小説として登場した頃は、そうした仕事は、この世界の空虚さを示すために行っているのかなと思っていたが、近年になって、それは違うことだとわかってきた。小説というものはそういうものだと示すことだったのだ。片岡義男という人は不思議な作家だ。70年代は日本文学のはずれのはずれにいた人だったが、いつのまにか小説そのものを考えている人、しかも無常観をあわせもつことによって、日本文学の中核に立つ作家になっていた。

9.11のトークショーで、荒木経惟さんの写真公開

先週の土曜は、倉本四郎さんの命日だったので、作家の森まゆみさんと一緒に葉山の倉本家にお伺いし、お線香をあげてきました。


森さんには、『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集』の下巻(10月刊行予定)の解説を書いていただいています。
倉本家からの帰り、海辺に出て一色海岸の海の家「ブルームーン」ヘ。曽我部恵一のライブを森さんと見ました。


さて、『ポスト・ブックレビューの時代』のトークショーに関するお知らせ。
9月11日(木)の夕方、東京堂書店トークショーをするのですが
そこでのスペシャル企画。
荒木経惟さんが撮影した倉本四郎の葬儀の写真を公開します。


倉本さんと親しかった荒木さんは、5年前の夏、倉本さんの葬儀に参列しました。
その際に撮っていた写真です。
荒木さんは自分のお気持ちを表すために遺族に、その紙焼き写真数十枚を送っていました。
その写真を未亡人、荒木さんのお許しを得て、トークショー当日公開します。
素晴らしい写真群です。
喪服の女たち、作家たちの背中、枯れたヒマワリ……荒木経惟の世界が展開しています。


たぶん、写真集になることも展覧会で公開されることの可能性も今はほとんどないと思われます。荒木さんのファンの方、現代日本写真愛好家の方々、必見です。


では、トークショーの情報です。


トークショー倉本四郎の言葉−−−−−「週刊ポスト」の書評と時代』
枝川公一氏×松山巖
(進行:渡邉裕之)


9月11日(木)18:00〜20:00(開場17:45)
於 東京堂書店本店6階(神保町) 参加費500円(要予約)


よろしくお願いします。

beach hut tour 03

8月2日

関西国際空港で見送り。すぐにリムジンバスに乗って高松へ。約3時間のバスの旅だ。いかにも帰省するといった雰囲気の家族や人が多い。
長距離バスで高松に行く……村上春樹の『海辺のカフカ』を思い出す。あの小説で惹かれるところは上巻で、戦争中に起こった不可思議な事件が語られるところだ。山梨県の子供たちが集団で記憶を失う事件。とりわけその事件に関するアメリカ陸軍情報部の調査ファイルが興味深い。


前に、このブログでも書いたのだけど、アメリカ人が日本人を観察している、特に、先の大戦に関わる形で観察している、それがどこか「医学」に関わる形で観察しているという構図が、私にとっては刺激的なのだ。
その構図は、長崎と広島にアメリカが落とした原爆を想起させる。アメリカの日本への核爆弾の使用は、その後、日本がアメリカによって医学的に観察されるという関係性を強いた。A という国がBという国と戦争し、勝利することによってできあがった関係性は歴史的に様々だろうが、勝利したA国が負けたB国を医学的に観察していくという関係性になったのは唯一のことではないか。

原爆障害調査委員会という組織がある。1947年に作られた広島・長崎の原子爆弾被爆者における放射線の健康影響を調査する組織だ。被爆者を救わず、モルモットとして観察した研究組織として批判されていたりしたが、その実態は私にはわからない。ここでの調査研究がチェルノヴイリでは役立ったとも聞く。現在は日米両国政府が共同で運営管理する放射線影響研究所になっている。


この原爆障害調査委員会に来日したマリリン・モンローが訪問している。当時の夫、ジョー・ディマジオの知り合いが研究所にいたらしい。この事実も私を刺激する。
モンローの研究所訪問の思い出を語ったテクストも放射線研究所関連のネットに数年前にはあったのだが、今はもうないようだ。


海辺のカフカ』のテーマは、生き直すということだったと思う。私も生き直す必要があるんだ。


そんなことを考えていたらバスは、鳴門海峡を渡る橋を走っている。今夜の高松の宿泊所を探すためにコンピュータを開く。3時過ぎに高松駅に到着。観光案内所でホテルを紹介してもらう。目星をつけたホテルだったので、そこに決める。それから明日予定の笹尾海岸に行くルートを教えてもらう。庵治温泉という場所までバスに行き、そこからタクシーでいかなければならない場所だった。その庵治という港町、映画『世界の中心で、愛をさけぶ』のロケ地だという。観光協会のパンフレットによれば「純愛の聖地」だ。
ホテルに行く前に、讃岐うどんを食べようということで、ホテル近くの「味よし」へ。肉うどん、うまかった。
小さなビジネスホテル「パレス高松」にチェックイン。小さな部屋。小さな机で原稿書き。


夜になり、何か飲もうということで高松の町を散歩。ライオン通りの成田屋。よかった! 実に鶏などの肉がうまかった。


5月にINAXギャラリーの展覧会のパンフレットの原稿書きの仕事で九州に行った。鹿児島でたいへんおいしい鶏肉を食べたのだが、焼き方が似ていたな。
そういえば、9月に発行されるこのパンフレットの原稿を6本ほど書いているのだが、その1本で、私、あの人気邦画、「駅前旅館シリーズ」のような雰囲気を醸し出すことに成功。筆力というよりは、たまたまよい素材を拾えて、昭和40年代くらいの観光地の空気感を表現することに成功したのだ。短い原稿だから、ぜひ読んでいただきたい。

INAXギャラリーの展覧会のタイトルは、「デザイン満開 九州列車の旅」。INAXギャラリー名古屋で9月5日から始まる。

深夜、ホテルの部屋でテレビを付けると、クリント・イーストウッドが西部劇ショーの座長の役で口上を述べている。子どもたちに早く眠るように、それからママとパパの言う事を聞くようにといっている。ドリフターズのようだ。土曜のあの時間の暗がりをまた思い出して、眠る。


8月3日

朝早めに起きて、高松駅前からバスで終着駅・庵治温泉へ。私一人が降りて携帯でタクシーを呼ぶ。笹尾海水浴場、鎌野海水浴場などを見る。四国の海の家は非常に個性的で、二畳程の桟敷席がずっと横に繋がり全長100メート程にもなる。畔柳教授命名するところのロングハウスタイプである。海をステージとして芝居小屋の用に桟敷を配置しているものだ。
ここで私はゆっくり桟敷に坐り、波の舞踊をずっと見ていようと思ったのだ。日大理工学部海洋建築工学科の畔柳研室の学生が、サーヴェイをしていたので、写真やパースを見ていた。行きたかったのは鎌野の地元老人会が運営していた海の家だった。丸太で組んだ構造にブルーシートの屋根というシンプルなスタイル。でも間口は113メートルもある。平均年齢70歳の老人たち30人が2日で作りあげたものだという。
素敵ではないか。30人のお年寄りが建てた青いシートの海の家の桟敷で、日がな一日過ごしてみたかったのだ。
しかし、タクシーで降りたら、今年はなかった……。老人たちもいなかった。代わりに30人くらいの子どもたちが水着でラジオ体操をしていた。30人の老人たちは今夏は子どもになっていた。いい海岸だったが、やはり桟敷席を体験しようということで、引き返して笹尾海水浴場のロングハウスタイプ海の家の桟敷を借りることにした。1日3000円。一人で借りるのは高い感じがするが一家族で借りるなら、そんなに高いものではないだろう。
砂浜に立つ海の家の背後には道路が走っており、渡ると売店があり、そこで焼きそばやビールなどを売っている。ひどい炒め方の焼きそばを横目で見ながら、千円札3枚を渡すと、ゴザを貸してくれる。それをもって自分の枡席のような桟敷に案内され、そこにゴザが敷かれれば、そこが自分の桟敷となる。


四国の田舎の海辺、桟敷席でゆったりと、平和な家族とともに海でも見ながらゆっくりしようと思っていたら、想像していた風情とは違ったようだ。
まず右横にいるのは、茶髪にタトゥーのヤンママ、それに40代そこそこでおじいさんになってしまった家長、やはり茶髪。その子どもたちがボーイフレンドやガールフレンド、妻や夫を連れて集まってくるのだが、そのたむろしている様子は地方都市のコンビニ前の世界。家族ではあるのだけど、ストリートピープルの集まりという感じだ。


左隣は、それなりに年をとっているのだがかなり小さな娘の父親である男。昔のリーゼントで剃りが入っている。ビールを飲みながら、一緒にきたグループの中の女性に「子どもが生まれたら人生かわるよ」と盛んに言っている。聞かされている方はショートヘアーの昔の女子プロレス風。やはり肩や背中にイレズミあり。この二人、割に人生を語りたいタイプ。男、なにかしら人の道、説こうとするのだが、「パパ、この子のこと、もっとめんどう見て、遊んであげて」という妻の声で中断をせざるをえない。


こうした2ファミリーに挟まれている私といえば、一人だけで桟敷を占領している変わり者だ。ずっとぼんやり海を見て、暑くなったら海に入り、少し泳いで、ぷかりと浮かぶ。桟敷に戻ってビールを飲む。昼寝をする。少し本を読む。

午後2時になってゴザを売店に返却。タクシーを呼んで庵治温泉へ。そこからバスに乗って高松へ。大阪行きの切符を買う。山口の方の海岸へ行く計画もしていたが、電話で新しい仕事が入ったこともあり、戻ることにする。大阪の鶴橋で肉も食べたくなった。瀬戸内海を渡り、岡山で新幹線に乗って大阪に行く。
(写真は、上からロングスタイルハウス型海の家、それを少しひいて撮影、そして桟敷からの視界)

beach hut tour 02

7月31日

朝早く起きて一色海岸の海の家「ブルームーン」や「海小屋」の朝の様子を見た。それから旅のためにスーパーで歯ブラシと髭剃りを、この地域ではビーチサンダルで有名な店、げんべえでビーチサンダルを買い、バスに乗って逗子へ。駅前の樹木の下のベンチでコンピュータでメールをチェックし(一色海岸あたりは非常に電波事情が悪いところなのだ)、それから新横浜へ。新幹線に乗って大阪へ。


難波から南海本線で岸和田など大阪ディープサウスを通過して和歌山市駅に着く。そこからバスに乗って新和歌浦へ。
断崖にはりつくような鉄筋コンクリートの建物が多い地域だ。よく磯の岩場に立ち足下をじっと見ていると、そこには小さな生物がおり、ずっとみているとその岩の幽かな起伏が山や渓谷に見えてくる、自分は巨大な人間になったような感覚になることがある。この町を歩くと感じるのは反対に自分が蟹のように小さくなり岩場の水たまりの町にいて、巨大な少年に凝視されている体感だ。崖を切り崩したこともあるのだろうが、最終的にはどうしても削ることができなかったその地形に合わせる形で建物が作られているので、人工的なような自然のようなラインが建物にできていて、そのことがこうした印象を作り出すのだろう。コンクリートのよさは人工と自然を混合した独特なラインができるところだ。しかし、それを意識せずにそのような状態になっているので、人が自分の仕事をよく理解せずやっていると醸し出される一種の荒涼感がこの町を包み込んでいる。


それから一週間後のことだけど、私は写真家の中里和人さんと向島の街を歩いている。ある雑誌の仕事で玉ノ井や鳩の街などかつての花街があった場所に対して体の感覚を拡げて歩行している。路地をくぐりぬけていくと、中里さんが「このアパートなんです」といいカメラを向ける。古びたアパートに、鉄の階段。その鉄の階段のスケール感がちょっと通常よりずれていて、何の理由か階段部分が建物より少し離れていて、橋のような状態になっているところがある。
階段は錆びているのだけど、自らが錆びていったというよりは、この鉄の構築物がある日、磁力を帯びたことがあり、この街の錆の粒々を引きつけてしまったようだ。いや、ある日、錆のマントを着込んだ怪人がやってきて、ばさっとマントを拡げると、日本全国のトタン屋根から集めた鉄錆が、どっと玉ノ井の町を覆い、最終的にこのアパートの壁や階段に張り付いた。だから鉄錆の小さな粒々に近づくと、「姉さん」「兄さん」「ちーちゃん」とトタン屋根の粒子の安寿と厨子王が呼び合っている声が聞こえる。


スーパーの裏側に出た。表側のスーパーらしい形とは違って裏側は、日本家屋の屋根が見える。中里さんが「田舎にある天理教の建物に似ている」と呟く。中里さんと仕事をする際の楽しみは、シャッターを押しながらの中里民話を聞くことだから耳をそばたてる。その建物にはちょっと異様に見えるダクトが何本も付いている。ぐいっと変な角度をつけて上空へと伸びている。それを写しながらささやいている。「ここは不思議な新興宗教のお寺で、信者の人たちはあのダクトから取り入れた空気しか吸えないのかもしれません」
白い着物をきた可愛らしい信者さんたちが床に寝転がって鉄のパイプから空気を吸い込んでいる。しかし、スーパーの表側から入ってみると、その可愛らしい信者さんたちは、棚に並べられたただの商品にしか見えない。
その日は暑い日だったからミネラルウォーターを買った。フランスからやってきた信者さんだった。



トンネルを潜り抜けてこの日泊まる旅館、木村屋に着いた。
もうすぐ陽が落ちそうな時間だったので、さっと風呂に入り、階下にある海の家bagusへ。
この和歌の浦という場所は一時期大阪の奥座敷と呼ばれていたところだ。関東でいえば、東京にとっての熱海のような観光地で、会社員が大挙してやってきて宴会をするようなところだった。しかし、そんな観光も時代にあわず、ハトヤのような巨大な旅館は衰退し、90年代中期から2000年代前期にかけて、ここは廃墟マニアのメッカ、巨大な旅館の廃墟がたくさん見ることができる場所として知る人ぞ知る地域になっていた。
この時間、バグースにいる客は女性同士の客だった。学生時代の友人がそれぞれ結婚し、今は子どもも生まれ、でも学生時代の頃の感じをとても大切にしているといった女性たちだった。そんな二人が海を見ながら飲み物を飲んでいる。浜辺ではそれぞれの子どもたちが遊んでいる。
以前のバグースは、ヒッピームーブメントの流れを汲むような人が多かったけど、今ではこうした女性たちの客が多いようだ。
旅館の木村屋の娘である女性とその夫が、この海の家を開いた時、よくわからぬ若者たちが集まる店として、他の旅館には思われていたようだが、実はこの海の家が今という時代を確実にキャッチしていたのだ。それを示すように、他の旅館の多くは潰れ、この木村屋が残った。
残った理由はきっといくつかあるだろうけど、この海の家の存在が大きいだろう。実際、自分はバグースに夜遅くまでいたいから、この旅館に宿泊することにしているのだから。
多分、このバグースを開いた人たちは、これが時代と合致しているとも思っていなかったと思う。しかし、音楽などさまざまな文化ムーブメントが交錯する海の家、私の言葉でいえば「ニュースタイル海の家」があることによって、こうして夜になると人々が集まってくる。


しばらく一人で飲んでいると、この店でよく会うAさんがやってきた。その夜は彼と飲みながらいっぱい話をした。
Aさんのお父さんが笑いながら亡くなった話を聞けたのがよかった。和歌山の歓楽街の昔の風情にも触れることができた。
あの土曜の夜の8時のドリフターズの時間、和歌山の歓楽街、そのテレビを見て笑って倒れた男がいた。
「宇宙家族ロビンソン」も土曜の夜の8時だった。
これも昭和の夜の宇宙家族の物語だろう。


Aさんの言葉は独特な魅力があって、酒を飲めば飲むほどそれは輝いてくるのだった。飲んで語って笑って、それから旅館の部屋に戻り眠った。


8月1日
朝早く起きて海辺に出て泳いだ。
それから散歩、和歌の浦という地域が大きく変化していることに気づいた。廃墟建築が少なくなっているのだ。あの独特な魅力をもった廃墟のいくつかが壊され改造され、老人介護施設やリゾートマンションになっていた。新たな地域として歩みはじめたようだ。
午後まで旅館にいられるように交渉し、部屋で浴衣姿で原稿を書く。午後2時になって出発。
和歌山駅までバス。それからリムジンバスに乗り換えて、関西国際空港へ。親しくしている人がベルギーに旅立つのだ。その見送りのために日航ホテルへ。夕方、その人と会う。
夜。ホテルの部屋で、自分が生まれ育った古都の名をあげて、その街をほんとうに愛しているのに、どうして自分は離れ、遥か遠いベルギーの街に行かねばならないのかと語り、ソファーでその人が泣いた。
窓の外は、ヨーロッパ人建築家が設計した、巨大な空港ビル。スケール感が掴めないので、見方によってはシルエットは巨人が佇む田舎の駅のホームにも見える。巨大な谷内六郎が、泣いている人のために、夜空に絵を描いた。
明日は、空港で見送り。それから四国独自の形をした海の家を見にいくために高松に行く。
(写真は、木村屋の部屋から見た海辺の景色、そしてbagus)

9.11にトークショーをします!

『ポスト・ブックレビューの時代  倉本四郎書評集』上巻(右文書院)の刊行を記念して、9月にトークショーをすることになりました。


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『ポスト・ブックレビューの時代』(上)刊行記念


倉本四郎の言葉−−−−−「週刊ポスト」の書評と時代
枝川公一氏×松山巖
(進行:渡邉裕之)


9月11日(木)18:00〜20:00(開場17:45)
於 東京堂書店本店6階 参加費500円(要予約)


*お問い合わせ・ご予約は東京堂書店03-3291-5181
 または、1階レジまでお尋ね下さい。
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枝川公一氏は、独自の視線で都市を見つめテクストを書き続けてきた文筆家。
著書に『バーのある人生』(中公新書)、『私家版アメリカ語感辞典』(研究社出版)、『今日も銀座へ行かなくちゃ』(講談社文庫)などがある。
倉本四郎とは、1967年、枝川氏が「女性自身」編集部にいた時からのつきあい。
「ポスト・ブックレビュー」では、鋭い言葉で対象を語るコメンテーターとして何度も登場している。

松山巌氏は、味わいのある言葉で都市文化や文学作品を批評していく文筆家。
著書に『うわさの遠近法』(ちくま学芸文庫)、『乱歩と東京』(双葉文庫)、『闇のなかの石』(文藝春秋)などがある。
倉本四郎とは、松山氏が独自の都市論を語る文筆家として注目されだした1980年代中期に出会っている。以来、友人となった。
『ポスト・ブックレビューの時代』上巻では、解説文を書いていただいた。


9.11に枝川公一さんと松山巌さんというと、けっこうすごい感じがしますが……。
私、司会やらせていただきますので、よろしくお願いします。

beach hut tour 01

7月30日
海の家を巡るbeach hut tourを開始した。


逗子の花火大会の喧噪をくぐりぬけて、葉山へ行った。
一色海岸のバス停で降りると、ひっそりとした夜の街だ。食堂の脇を入っていくと、自分が小さな頃の夏の夜の一本道がそこにある。
家族一同テレビを見るのに部屋を暗くしたのは、その頃は映像物語がまだ映画館と分かちがたく結びついていたからだ。暗がりの茶の間で母も父も兄も私も下着姿で、ワンピースを着た姉だけが取り澄まし、家族一緒に小さなテレヴィジョンのブラウン管を見つめていた。見ていたのは「宇宙家族ロビンソン」。宇宙の片隅の惑星に漂着したアメリカ人家族の物語だった。私たち家族はその日もなんとなく寂しい気分でいたはずだ。それは一週間前、飼っていた猫を捨てていたから。
どうして突然そうなったのか? 大家に何かいわれたのか。もしかしてノミが大発生し、私の体がひどい状態になったせいか、自分が関係しているかもしれぬのに、そのことさえよくわからないほど、私は幼い子供だった。
猫を捨ててきたのは、小学校高学年の兄だ。家から歩いて15分のところにある駅前の天祖神社に捨ててきたという。ブラウン管の中で、家族同様の扱いを受けていたロボットが故障をする。また憂鬱になる。ロボットの腕が垂れ下っただけなのに。窓ガラスや扉は開け放たれており、ごちゃごちゃとした住宅街の路地をすりぬけてきた夏の夜の風が部屋の中に流れ込む。
その時だった。窓の外からか細い鳴き声が聞こえたのは。チーコの声だった。家族みんなが口々にその名を呼んで家から飛び出した。庭ではもうすでにランニング姿の兄がずいぶんか細くなった猫を抱いていた。みんながそれを取り囲み、もう捨てることなどできないといったようなことをそれぞれ口にする。
チーコを中心にした私たち家族は暗がりの中にいた。街だというのに昭和30年代のそれは田舎の闇だまりのように深く黒かった。私たちが宇宙家族のようだった。


葉山の一本道である。進んでいくと公園がある。その空間は路上よりもっと暗いので足元によく気をつかって歩かなければいけない。と思った瞬間、そんなことなど気にしてもしょうがないと観念させられるような音が闇の奥から轟く。波の音だ。繰り返し繰り返し、その音がする度に、暗がりの公園にいる自分の真正面に大きな夜の海が少しずつ見えてくる。


砂浜に降りてみると海の家はひっそりとしていた。逗子の花火大会を見に人々は出かけていて、遠くにドーンという音しか聞こえぬこの一色海岸の海の家にはほとんど客がきていないのだ。暗がりの中に子供がいた、外国人がいた、女も、そして友が待っていた。昨年は葉山の海の家には顔を出していなかったから積もる話もあった。


その日は映像関連の仕事をしている夫婦の家に泊まった。仕事の話をした。ここ10年で映像の世界は様変わりをしたようだ。闇の中の家族一同でみつめたブラウン管の光は、もうほんとうに消滅してしまったのだ。
コンピュータの世界は自分が関わる出版の業態を変えていったが、映像業界の方が決定的に変化したのかもしれない。最近、映像関係者に多く会っているが、そこでの人々の暮らしの流動のありさまにはとてつもないところがある。技術者やその家族の心情は、見知らぬ惑星に漂着した宇宙家族のようだろう。 


私が海の家に興味をもったのにはいくつかの理由があるのだけど、その一つが高度成長期に働いていた男性の労働者たちを中心とするその家族のレクリエーション・スペースであった海の家が、今、脱産業化社会の中で、男女労働者やその家族、あるいは労働の拒否者によって読みかえられ、新たな意味をもったスペースになったということだ。そのようなスペースを私は「ニュースタイル海の家」と呼んだ。


私の父は高度成長期のサラリーマンであったが、ある時(たぶん自分がついていた上司が派閥抗争で負けた時)から、仕事に対して見切りをつけ、その時代ではまだめずらしかった「家族サービス」を自分の生き方の中心にした人だった。その現れとして父は必ず定時に帰宅しており、それも味噌汁をこの時間で母があたためていればちょうどよい温かさになった時には食卓についているという徹底ぶりであった(……私が大人になって仕事をしだし、定時に帰ってしまう仕事仲間がどのような目で見られるのかを知った時、定時帰宅を何十年も続けてきた父の孤独を深く感じたのであったが…)。
父は高度成長期の労働者ではあったが、同時にソフィスケートされた労働拒否者だった。しかし1980年代になるまで、乞食になるのではなく博打にうつつをぬかすのでもなく、芸事に熱中するのでもなく、労働拒否者になることはとても難しいことであった。「家族サービス」という、昭和30ー40年代に輝きをもった言葉を、ある勢力は、労働力の再生のために必要な基盤である家庭の安定化のために、ある勢力は労働者階級の豊かな社会が遠い未来ではなく、今ここにも実現できることを教えるために使ったかもしれないが、父のようなソフィスケートされた労働拒否者は、「家族サービス」というその「家族」や「サービス」という言葉のうちに、労働とその対価で関係できる世界とのつきあい方ではない、無償の関係性を見出していたのではないかと最近になって私は思っている。


こうした父の生き方のおかげで、私は海の家を含めて、遊園地、映画館、家族一同で餃子をつくるために集まるちゃぶ台など、当時のレクリエーション空間というものの質感をよく知っている。
それは第二次世界大戦によって徹底的に破壊された社会、その廃墟の中から社会を構築しようとする人間たちの力動と、同時にいつだって人間が抱えている性愛の自律した運動のずれや同調から生まれる、あの時代ならではの空間の質感だった。
そして今は、社会がさまざまな理由から瓦解していっていくその動きと、同時にいつだって人が抱えている性愛の自律した運動、そしてその横にある、癌細胞のように自律し進展・増殖していくコンピュータの運動との、それぞれが同調しズレていくありさまだ。その質感は、ニュースタイル海の家にも満ち満ちており、今日そこで話した私たちの会話も影響を強く受けていたはずだ。


映像産業労働者の夫婦の家は静かな家で、静かな夜を過ごすことができた。しかし、うまく眠ることはできなかった。


明日は和歌山の新和歌浦というとても興味深い地域のbagusという海の家に行く。

『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 上巻』完成!


先日お知らせしました『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 上巻』(右文書院)の見本が出来上がってきました。

書評家・倉本四郎が1976年から1997年までの21年間、「週刊ポスト」(小学館)誌上で続けてきた連載記事「ポスト・ブックレビュー」の約1000本の原稿より、私が100本を選び出し編纂したものの上巻です。
定価2940円(税込み)、7月10日、書店店頭に並びます。

昨日は、光文社のMさんとの打合せの後、
お茶の水で右文書院の青柳さんと待ち合わせ。見本を受け取り二人で
上巻打ち上げ。
(下巻は書評は初校上がっている段階だが、ブックリストや著作リストなどがあるなど道のりはまだ遠い)


帰宅してから台所の箪笥の上に倉本四郎さんの写真を飾り、
コップに日本酒を満たし、 レイヴ会場で匂うようなお香を炊いて
『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 上巻』を献上。
(最近は共同生活者と、ここが「深夜仮設立ち飲み居酒屋」のカウンターになる)
乾杯して書評集上巻完成記念式典を行った。
けっこう飲んで、目を覚ましたら仕事場のソファの上でした。


「本を語る悦ばしき声が響き合う」本にしようと考え造ってみました。
店頭でご高覧下さい。