片岡義男の『白い指先の小説』について

片岡はその登場人物を「美人」という、現代の小説では少々古風な感じに聞こえる言葉を直接的に使って表現する数少ない作家だ。
片岡の小説を読んできて、何故、そのヒロインは「美人」なのか? といつも思ってきたが、ここではあっさりと小説が始まるその時に、その答えを教えてくれる。
短編集『白い指先の小説』(毎日新聞社)の最初の小説『本を買いにいった』は、「実用的な美人」ということについて語っている会話から始まる。
ヒロインが登場する第一幕が上がる前、幕前の寸劇として主人公の女性がアルバイトで務めていた編集部の人間たちの雑談が始まるのだ。勿論、その人はいない。
「実用的な美人」は、「事態ぜんたいをいいかたちで前へ進めていく」人として語られる。
そして、この小説のヒロインは、美人だが、「目立たない人」、「風景に溶け込みやすい」とされ、彼女は「実務の実行のなかに私情がはいってこない」人でもあることが話されていく。
そして会話はふと終る。
「目立つということは、私情の最たるあらわれかもしれない、とは言える」
「しかし、私情のない人はいないですからね」
これを終わりの会話として、次から、作者は新たなパラグラフを綴る。
幕が上がった。ヒロイン、裕美子が登場する。


つまり片岡にとって、「美人」とは、事態全体をよいかたちで前へ進めていく人だ。
それが意図的に小説の中で使用され、実務の実行が行われる(この使用方法には、片岡が多く見てきた日本映画の黄金時代のヒロインの存在感が大きい。映画鑑賞体験と小説製作との関係については、また違うテクストで語っていきたい)。
ここでいう「実務の実行」とは、言葉による小説の構築のことだ。また、その構築のスピードをゆるませる「私情」は、言葉それぞれが関係する世界の具体性からもたらされる感情のことだろう。言葉はとても抽象的になれるが、世界の具体性からは切り離せない。その性質を上手に使って読者の心を揺さぶるのが小説家の仕事だ。
片岡は、その仕事を行う技術のひとつとして「美人」という言葉を使う。
「美人」という言葉を使うことによって、小説のヒロインは抽象的になり、小説という事態を前へ前と進めることができる。「美人」という言葉を使わず、それを細かく描写していくことになったら、それは実際の世界にいる美しい人、具体性に関係してしまう。その実際の女性がもっている不自由さに捕われることを回避するためにも、「美人」という言葉が使われる。


登場人物の抽象性は、片岡の小説だけにいえる事柄ではない。ほとんどの小説の中の魅力的なヒロイン、いや登場人物が魅力的であるということは、それはすべて、ほどよく抽象的に書かれているからだ。
「ほどよく抽象的に書かれている」とは、どういうことなのかといえば、目立たなく、風景に溶け込んでいるということだろう。作者が表現したい抽象性をとても大切にして動き、しかし目立たせずに(目立ってしまえば、それは批評文になってしまうから)、物語というものに溶け込むことが、登場人物、特にヒロインやヒーローの大きな役目なのであり、それに成功した登場人物だけが魅力的なのだ。


『本を買いにいった』の裕美子は、短編小説を2本だけ雑誌に発表した物書きだ。その2本目の短編が発表された雑誌を見ながら、彼女は「自分は作家になる」という決断をする。それから部屋の整理が始まる。資料の整理、いらなくなった本を古本屋に売る過程がたんたんと描写されていく。日常生活のそれも孤独な人間の日常生活の細部を描写していくことは、片岡が綴る物語の大きな特徴だ。ヒロインは実に合理的に、そしてストイックにそれを実行する。主人公が、日常生活を合理的にストイックに実行することを好んで書く作家に、村上春樹がいる。彼の主人公のこうした行為は、終わりがない日常だからこそ、精神的に崩壊しないようにストイックに生きようとするモラルが感じられるが、片岡の主人公のそれにはモラルはない。終わりがない日常というよりは、この世界は無常なのだと片岡は思っているはずだ。世界は、ヒロインのように、事態全体を前へ前へと進めていく。かなりスピーディーに。多分、片岡の世界観は、このようなものだ。片岡の小説は主人公たちは、その事態の進行にまけないように、かなりスピーディーに、日常生活の細々を実行していく。大切なことは無常の世界の絶え間ない波に、どう乗っていくかだ。しかし、世界は自然だけでできているのではなく、私情や抽象性によって編み込まれた社会というものが存在するので、その実行に於いて思わぬことが起こる。

さてこれから、その事態を語っていこうと思うのだけれど、この小説をこれから読もうと思っている人、あるいは小説をストーリーの流れだけに乗って楽しみたい人には、この文章はここで読むのはストップしていただきたい。読んでいただいてから、この後の部分はご高覧下さい。


よいでしょうか。では再開します。
小説を書くという仕事の手のうちを見せながら小説を構成していく。そのことを実行し、成功しているこの短編集の最初の小説『本を買いにいった』では、「美人」のヒロインが日本近代文学全集を買いにいくという行為が大切なモチーフになっている。日常生活を合理的にてきぱきとこなしながら、その流れの中で、裕美子は古本屋にいって、全13巻の日本近代文学全集の中で手に入れることができなかった第11巻を購入する。
家に戻り、本を開くと、「その本の左側のページは、そのまんなかで長方形に切り抜かれて空洞であり、その空洞の深みのなかに何枚もの一万円札が詰めてあった」のだ。
数えてみれば300万円だった。裕美子はその札束を薄気味の悪いものと感じる。
貨幣という最も抽象的なものが札束という具体物として、小説を束ねた全集に切り抜かれた空洞の中に現れたわけだ。
事態のスムーズな進行を阻むような抽象性であり具体性が突如出現したわけだ。
片岡義男の小説では、あまりない事態である。しかし、小説家の仕事を見せていくことがテーマのこの短編集だからこそ、片岡は特別に非常に特別なこととして、その事態を出現させた。
日本近代文学全集に作られた穴は、小説という完結された世界に切り抜かれた穴であり、そこからは抽象性そのもの、具体性そのものの外部が出現しているのである。


裕美子はどう行動するのか。抽象性と私情のバランスを上手に生きながら、事態を前へと進める使命をもったヒロインは、何をするのか。古書店にもどってこのことを報告もしなければ警察にも通報しない。考えたのは「一冊だけ分売したあとの十二冊をどうすべきか、ということだった。買うほかない。買わなければいけない。買うことこそ正しい」と思い、次の日、残りの十二冊を買うのだ。
さらに、裕美子は神保町に行き、切り抜かれていることによって読めなかった第11巻を買い、300万の札束は例の本に戻し自宅の本棚に全部で14冊になった全集を並べるところで、この小説は終る。


ここで片岡が小説として成立させながら、いいたいことは何か。小説は、抽象性や具体性それ自体を扱えないということを隠蔽しているということだろう。世界は抽象性も具体性も含みつつ、刻々と進展している無常の世界だが、小説はそれができない。抽象性や具体性そのものを扱ってしまえば、小説という事態の進行は停まってしまい、小説は成立しないということをいっているのだと思う。


片岡の小説の魅力は、事物や人物を具体的に描写しつつ、そのことによって具体性を隠蔽しているところを読者に感じさせるところだ。彼が小説として登場した頃は、そうした仕事は、この世界の空虚さを示すために行っているのかなと思っていたが、近年になって、それは違うことだとわかってきた。小説というものはそういうものだと示すことだったのだ。片岡義男という人は不思議な作家だ。70年代は日本文学のはずれのはずれにいた人だったが、いつのまにか小説そのものを考えている人、しかも無常観をあわせもつことによって、日本文学の中核に立つ作家になっていた。