beach hut tour 02

7月31日

朝早く起きて一色海岸の海の家「ブルームーン」や「海小屋」の朝の様子を見た。それから旅のためにスーパーで歯ブラシと髭剃りを、この地域ではビーチサンダルで有名な店、げんべえでビーチサンダルを買い、バスに乗って逗子へ。駅前の樹木の下のベンチでコンピュータでメールをチェックし(一色海岸あたりは非常に電波事情が悪いところなのだ)、それから新横浜へ。新幹線に乗って大阪へ。


難波から南海本線で岸和田など大阪ディープサウスを通過して和歌山市駅に着く。そこからバスに乗って新和歌浦へ。
断崖にはりつくような鉄筋コンクリートの建物が多い地域だ。よく磯の岩場に立ち足下をじっと見ていると、そこには小さな生物がおり、ずっとみているとその岩の幽かな起伏が山や渓谷に見えてくる、自分は巨大な人間になったような感覚になることがある。この町を歩くと感じるのは反対に自分が蟹のように小さくなり岩場の水たまりの町にいて、巨大な少年に凝視されている体感だ。崖を切り崩したこともあるのだろうが、最終的にはどうしても削ることができなかったその地形に合わせる形で建物が作られているので、人工的なような自然のようなラインが建物にできていて、そのことがこうした印象を作り出すのだろう。コンクリートのよさは人工と自然を混合した独特なラインができるところだ。しかし、それを意識せずにそのような状態になっているので、人が自分の仕事をよく理解せずやっていると醸し出される一種の荒涼感がこの町を包み込んでいる。


それから一週間後のことだけど、私は写真家の中里和人さんと向島の街を歩いている。ある雑誌の仕事で玉ノ井や鳩の街などかつての花街があった場所に対して体の感覚を拡げて歩行している。路地をくぐりぬけていくと、中里さんが「このアパートなんです」といいカメラを向ける。古びたアパートに、鉄の階段。その鉄の階段のスケール感がちょっと通常よりずれていて、何の理由か階段部分が建物より少し離れていて、橋のような状態になっているところがある。
階段は錆びているのだけど、自らが錆びていったというよりは、この鉄の構築物がある日、磁力を帯びたことがあり、この街の錆の粒々を引きつけてしまったようだ。いや、ある日、錆のマントを着込んだ怪人がやってきて、ばさっとマントを拡げると、日本全国のトタン屋根から集めた鉄錆が、どっと玉ノ井の町を覆い、最終的にこのアパートの壁や階段に張り付いた。だから鉄錆の小さな粒々に近づくと、「姉さん」「兄さん」「ちーちゃん」とトタン屋根の粒子の安寿と厨子王が呼び合っている声が聞こえる。


スーパーの裏側に出た。表側のスーパーらしい形とは違って裏側は、日本家屋の屋根が見える。中里さんが「田舎にある天理教の建物に似ている」と呟く。中里さんと仕事をする際の楽しみは、シャッターを押しながらの中里民話を聞くことだから耳をそばたてる。その建物にはちょっと異様に見えるダクトが何本も付いている。ぐいっと変な角度をつけて上空へと伸びている。それを写しながらささやいている。「ここは不思議な新興宗教のお寺で、信者の人たちはあのダクトから取り入れた空気しか吸えないのかもしれません」
白い着物をきた可愛らしい信者さんたちが床に寝転がって鉄のパイプから空気を吸い込んでいる。しかし、スーパーの表側から入ってみると、その可愛らしい信者さんたちは、棚に並べられたただの商品にしか見えない。
その日は暑い日だったからミネラルウォーターを買った。フランスからやってきた信者さんだった。



トンネルを潜り抜けてこの日泊まる旅館、木村屋に着いた。
もうすぐ陽が落ちそうな時間だったので、さっと風呂に入り、階下にある海の家bagusへ。
この和歌の浦という場所は一時期大阪の奥座敷と呼ばれていたところだ。関東でいえば、東京にとっての熱海のような観光地で、会社員が大挙してやってきて宴会をするようなところだった。しかし、そんな観光も時代にあわず、ハトヤのような巨大な旅館は衰退し、90年代中期から2000年代前期にかけて、ここは廃墟マニアのメッカ、巨大な旅館の廃墟がたくさん見ることができる場所として知る人ぞ知る地域になっていた。
この時間、バグースにいる客は女性同士の客だった。学生時代の友人がそれぞれ結婚し、今は子どもも生まれ、でも学生時代の頃の感じをとても大切にしているといった女性たちだった。そんな二人が海を見ながら飲み物を飲んでいる。浜辺ではそれぞれの子どもたちが遊んでいる。
以前のバグースは、ヒッピームーブメントの流れを汲むような人が多かったけど、今ではこうした女性たちの客が多いようだ。
旅館の木村屋の娘である女性とその夫が、この海の家を開いた時、よくわからぬ若者たちが集まる店として、他の旅館には思われていたようだが、実はこの海の家が今という時代を確実にキャッチしていたのだ。それを示すように、他の旅館の多くは潰れ、この木村屋が残った。
残った理由はきっといくつかあるだろうけど、この海の家の存在が大きいだろう。実際、自分はバグースに夜遅くまでいたいから、この旅館に宿泊することにしているのだから。
多分、このバグースを開いた人たちは、これが時代と合致しているとも思っていなかったと思う。しかし、音楽などさまざまな文化ムーブメントが交錯する海の家、私の言葉でいえば「ニュースタイル海の家」があることによって、こうして夜になると人々が集まってくる。


しばらく一人で飲んでいると、この店でよく会うAさんがやってきた。その夜は彼と飲みながらいっぱい話をした。
Aさんのお父さんが笑いながら亡くなった話を聞けたのがよかった。和歌山の歓楽街の昔の風情にも触れることができた。
あの土曜の夜の8時のドリフターズの時間、和歌山の歓楽街、そのテレビを見て笑って倒れた男がいた。
「宇宙家族ロビンソン」も土曜の夜の8時だった。
これも昭和の夜の宇宙家族の物語だろう。


Aさんの言葉は独特な魅力があって、酒を飲めば飲むほどそれは輝いてくるのだった。飲んで語って笑って、それから旅館の部屋に戻り眠った。


8月1日
朝早く起きて海辺に出て泳いだ。
それから散歩、和歌の浦という地域が大きく変化していることに気づいた。廃墟建築が少なくなっているのだ。あの独特な魅力をもった廃墟のいくつかが壊され改造され、老人介護施設やリゾートマンションになっていた。新たな地域として歩みはじめたようだ。
午後まで旅館にいられるように交渉し、部屋で浴衣姿で原稿を書く。午後2時になって出発。
和歌山駅までバス。それからリムジンバスに乗り換えて、関西国際空港へ。親しくしている人がベルギーに旅立つのだ。その見送りのために日航ホテルへ。夕方、その人と会う。
夜。ホテルの部屋で、自分が生まれ育った古都の名をあげて、その街をほんとうに愛しているのに、どうして自分は離れ、遥か遠いベルギーの街に行かねばならないのかと語り、ソファーでその人が泣いた。
窓の外は、ヨーロッパ人建築家が設計した、巨大な空港ビル。スケール感が掴めないので、見方によってはシルエットは巨人が佇む田舎の駅のホームにも見える。巨大な谷内六郎が、泣いている人のために、夜空に絵を描いた。
明日は、空港で見送り。それから四国独自の形をした海の家を見にいくために高松に行く。
(写真は、木村屋の部屋から見た海辺の景色、そしてbagus)