匿名性をあなた達と一緒に

夏のはじまりの海の家オアシスBBSでの、言葉の荒れ方について躓いたたままだ。夏が終わって涼しくなったというのに、みなさん、海の家への法的縛りについていろいろと語りあっているというのに、こちらはあの言葉の退廃の現場に躓いたままなのだ。


匿名性という問題がある。匿名だからこそ言葉が荒れてくる。といった問題は誰もがわかっていることだ。そのことについての学者や批評家の言葉はたくさんある。匿名性の問題は現在の大きな問題だから、文章を書く人間は、なんとか解答しようと思うだろう、だから、たくさんのテクストがある。


では、写真家はこの問題について考えようとしないのだろうか。もっと単純に写真家は匿名ということに対して欲望しないのだろうか。たとえば私は、BLOGの有名人、極東ブログの人、偽日記の画家などの顔を見たいと思う。もしかしたらネットで人間関係の大部分を行っている人はその望みはもっていないのかもしれないが、私はすごくある。たとえばある雑誌で今話題のこの「はてな」の特集を組み、そこで有名BLOGERのポートレートを写真家が依頼された場合、彼はどんな写真を撮影していくのだろうか。


優れたポートレートは、写真家の記録ではなく、被写体の欲望も映し出しているものだ。だとしたら2ちゃんねるやBLOGの人たちのポートレートはどんな写真になるのだろうか。80年代から90年代くらいにあった写真、あるコレクターが顔は出せないのでプロレスの覆面をしている写真(この覆面は退屈で大嫌いだった)、自分の顔写真に過剰な傷付けを行う写真(自分にもわかる世界だった)のような感じか。しかし、そういった顔写真は、どこか今のネット状況の中にある人間の顔とは違っている。


あるいはこうも考えられる。あのオアシスBBSには女性の発言があった。たとえば、ある一人の女性が何人かの人格となって発言していたとする。それを写真家がその人格をそれぞれ撮影したとする。想像するとそれはシンデイ・シャーマンの変装写真に近いのではないだろうか。たとえば、あのBBSの発言の映像化。海の家が起こす問題を敏感に受けとめる高い社会性の意識、あるいは何者かへのルサンチマン、人格が別れていくこと、たった一人の愛する人への思いなどが交錯する発言を映像化すると、確かにシンデイ・シャーマンの一連の写真に近い。


シンデイ・シャーマンの写真は匿名性の時代のポートレートだということだろうか。あるいは神蔵美子が行っている女装写真も匿名の時代への写真家の返答として解釈できないだろうか。

BLOGERのポートレート。それをぎりぎりまで想像してみること。
斉藤環北田暁大のラインで匿名性のことを考えても、自分にとっては行き着く先は行きたくない場所のような気がする。シンデイ・シャーマンや神蔵美子の写真ラインで匿名性の問題に迫っていきたい。躓いた痛みを女たちと座りこんで、ぐだぐだと考え話し続けていくのは、確かに自分向きだ。